日米和親条約(神奈川条約)

<概要>

1854年(嘉永7年・安政元年←改元は11月27日)1月。前年の約束通り、ペリー(61歳)が再来した。今回は軍艦7隻を率い、前年よりも軍事的威圧力を高めている。横浜に兵士ら約500人を上陸させ、交渉決裂となれば一戦交える姿勢のペリーに押しきられる形で、3月3日に幕府は日米和親条約(神奈川条約とも)を結んだ。いや、結ばされたと表現したほうが正しいかもしれない。この条約の主な内容は以下の通り。
1.薪水・食料・石炭を供給するため、下田・箱館(のちの函館)の2港を開港する。
2.難破船・漂流民を救助する。
3.下田に領事を駐在させる。
4.日本はアメリカに片務的最恵国待遇を与える。
このうち、4については「片務的」という部分が明らかな不平等条約である。「和親」という言葉からは、平和友好的な条約が連想されるが、実態はこのようなものであった。
のちに、イギリス・ロシア・オランダともほぼ同じ内容の条約を結んだ。幕府の鎖国政策は欧米列強の武威によって破られたのである。

<その後の展開>

鎖国を破られた日本には、強大な軍事力を持つ欧米列強の侵略の手が伸び始める。
また、幕府内部では13代将軍・徳川家定の後継者をめぐる派閥争いが始まろうとしていた。幕末の動乱はますます加速していった。


片務的な最恵国待遇って何?

日米和親条約は不平等条約とされる所以の条項が、この「片務的最恵国待遇」だが、その内容は、
アメリカに与えたよりも有利な条件で、日本が他の国と条約を結んだとき、自動的にその条件がアメリカにも認められる
ということである。簡単な例えを使って説明しよう。アメリカが自国のハンバーガーを、日本に100円で売る権利を得たとしよう。あとになって、イギリスが自国のハンバーガーを日本に200円で売る権利を得たとする。このままではアメリカが得た権利が損になるので、改めて条約を結ばなくても、自動的に日本はアメリカのハンバーガーも200円で買わなければならなくなる、ということである。
この「最恵国待遇」という条件は、相互に認めるものなら不平等条約にはならないのだが、「片務的」という条件が付加することで、不平等になるのである。アメリカが、他国と日本よりも有利な条約を結んだとしても、日本は改めて条約を結び直さない限り、不利となってしまった条約のままなのである。
この「片務的な最恵国待遇を認めさせる」という条約は、欧米列強によるアジア侵略の第一歩として使われた条項で、アヘン戦争で結ばれた南京条約でも、清はイギリスに対する片務的最恵国待遇を認めさせられていた。

日露和親条約と国境画定

この年の12月、ロシアと日露和親条約が結ばれた。内容は日米和親条約とほぼ同じだが、以前からたびたびもめ事になっていた(現在も北方領土問題でもめているが)国境が画定された。千島列島は、択捉えとろふ島以南を日本領、ウルップ(得撫)島以北をロシア領とし、樺太は両国人の雑居地と定められた。

日米和親条約をもう少し詳しく

全文12条からなる日米和親条約の条文の一部を、具体的に見てみよう。
(注:元は東京大学史料編纂所編「大日本古文書」に所収されている「幕末外国関係文書」)

第一ヶ条
日本と合衆国とは、其人民永世不朽の和親を取結び、場所・人柄の差別これ無き事。
第二ヶ条
伊豆下田・松前地箱館の両港は、日本政府に於て、亜墨利加アメリカ船薪水・食料・石炭欠乏品を、日本にて調ひ候丈は給し候為め、渡来の儀差し免し候。
第八ヶ条
薪水・食料・石炭並びに欠乏の品を求むる時には、其の地の役人にて取扱ひすへし。私に取引すへからさる事。
第九ヶ条
日本政府、外国人へ当節亜墨利加人へ差し許さす候廉相かどあい許し候節は、亜墨利加人へも同様差し許し申すへし。右に付、談判猶予致さず候事。
第十一ヶ条
両国政府に於て、よんどころなき儀これ有り候時は、模様に寄り合衆国官吏の者下田に差し置き候儀もこれ有るへし。尤も約定調印より十八箇月後にこれ無く候ては、其儀に及はす候事。

さて、第一ヶ条だけなら、平和友好条約と見ていいだろう。
第二ヶ条の「松前地箱館」とは、のちの函館(1869年に函館と改称)のことで、当時は松前藩の領地だった。条約調印後は幕府の直轄地となり、箱館奉行が置かれた。
第九ヶ条が、上記の「片務的最恵国待遇」の条項に相当するものである。
第十一ヶ条はのちに下田に駐在するアメリカ領事についての件だが、日米両国で多少の違いがあった。まず、冒頭の「両国政府に於て」の部分は英文では「either of two governments:両国政府のどちらか一方」となっている。また、「十八箇月後」の部分は「within eighteen months:18ヶ月以内」となっている。
1856年(安政3年)にハリスが来日した時、この部分でもめごとになったが、結局は下田駐在を認めた。

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