安政5年(1858年)6月、大老の井伊直弼(44歳)は勅許なしで日米修好通商条約に調印すると共に、13代将軍・徳川家定の継嗣を、紀伊藩主の徳川慶福(とくがわ よしとみ:13歳)と決定した。
家定は病弱で子がなく、以前から将軍相続問題は議論されていた。徳川慶福を推していたのは、井伊直弼はじめ譜代大名、将軍側近らなどで南紀派と呼ばれていた。一方、水戸藩の徳川斉昭(59歳)の息子で、御三卿の一橋家を継いだ一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ:22歳)を推す派閥が勢力を持っており、越前藩主・松平慶永(春嶽)ら雄藩大名や、阿部正弘に登用された開明的な幕府役人らが支持しており、一橋派と呼ばれていた。
井伊直弼は一橋派の反対を押し切り、強引に徳川慶福を継嗣として決定したのである。
勅許なしの条約調印、そして将軍継嗣決定など、雄藩との協調というこれまでの路線を井伊直弼は180度回転させて、幕府独裁型の政治を推し進めた。さらに、井伊のやり方に反発する者は将軍家の一族であろうと雄藩大名であろうと、徹底的に処罰して(安政の大獄)独裁体制を強化したのである。
御三卿(ごさんきょう)とは、御三家と同様に将軍継承権を持つ将軍家の一族の家である。
御三卿は、8代将軍・徳川吉宗から始まる。吉宗は御三家・紀伊家の出身で、将軍本家の男児が断絶したために将軍となったが、時の流れと共に本家と御三家の血縁関係は薄くなっていた。そこで、吉宗は息子の宗武(むねたけ)に田安家を、宗尹(むねただ)に一橋家を興させ、将軍家の嫡流が断絶したときは、将軍継承権を持つ家とした。9代将軍・徳川家重(とくがわ いえしげ)も、息子の重好(しげよし)に清水家を興させ、田安・一橋両家と共に将軍継承権を持つ家とした。これら田安・清水・一橋の三家を御三卿という。石高はいずれも10万石。
御三卿と御三家の大きな違いは、御三家が藩という形をとることに対し、御三卿は藩という形をもたず、将軍の家族という扱いを受けること。御三卿の家にも当主がいるので、当然それに従う家臣も存在するが、家臣達は形式上は幕臣であり、それぞれの家へ出向しているという形をとっている。
両派の意見の対立をまとめてみると、以下の表のようになる。
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徳川家による支配の正統性を維持するためには、将軍の血筋に近いことが重要。 | 列強による侵略を食い止めるためには、優秀な将軍が必要。 | |
・井伊直弼(彦根藩主・大老) |
・徳川斉昭(前水戸藩主) |
一橋派の顔ぶれは四賢侯(松平慶永・島津斉彬・山内容堂・伊達宗城)はじめ、幕末に名を轟かせた有力者が揃っているが、南紀派は井伊直弼しか目立った人物がいないのが特徴的である。
また、越前藩士・橋本左内(はしもと さない)は慶喜擁立のために活躍するなど、敗れた一橋派の勢力もかなりのものであったことがうかがえる。
幕末を語るときに欠かせないのが「尊王攘夷論(そんのうじょういろん 略称:尊攘論)」である。「尊王」とは天皇・朝廷を敬うこと、「攘夷」とは外国を排斥することで、その政治思想は朝廷を重んじ、開国を迫る列強とは徹底的に排除する、というものである。幕末にはこの種の思想が普及していたのだが、この尊攘論の普及に大きく貢献したのが御三家の水戸藩なのである。
水戸藩では、水戸黄門で有名な2代藩主・徳川光圀(とくがわ みつくに)から「大日本史」の編纂をはじめ、日本の歴史を調査していた。1657年に始まった編纂事業は、1906年に終了と、なんと250年にわたって行われたのである。この大編纂事業を行った水戸藩では、「大日本史」の歴史観が藩士らに普及していたのである。徳川光圀は、日本に天皇が二人存在した南北朝時代では、南朝を正統とし、楠木正成(くすのき まさしげ)を忠臣と讃えている。一方、北朝を建て武家政権を復興させた足利尊氏(あしかが たかうじ)は逆賊として非難されているのである。公家の歴史観なら理解できるが、武家の、しかも将軍家の一族がこのような歴史観を持つということは、たいへん興味深い。水戸学では「大義名分」に重きを置くため、日本の頂点に立つ天皇に対抗する者は「逆賊」とする傾向が強かったようだ。9代藩主となった徳川斉昭も研究を進めさせ、藤田幽谷(ふじた ゆうこく)とその息子・東湖(とうこ)、会沢安(正志斎)(あいざわ やすし(せいしさい))らが唱えた尊王攘夷論は、幕末の思想に大きな影響を与えた。
表面上は幕府の正統性を否定しているわけではないが、水戸徳川家には
「朝廷と幕府との間に戦が起こったら、朝廷に味方するように。」
という秘密の教えがあったという。
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