司馬遼太郎 著
新潮文庫

 譜代大名・牧野家の越後長岡藩は7万4千石の小藩。歴史の表舞台に立てるような力は持てない、その他大勢の藩の一つであった。ところが、ある一人の藩士が現れたことによって、その運命を大きく変えることになる。幕末に生まれた長岡藩士・河井継之助は、長岡藩を救うという強烈な使命感を持って、形而上的な学問ではなく、世の中の仕組みを知るために遊学を続けていた。そして、動乱の時代は、藩に確かな理想と指導力を持った人物の登場を期待することになる。継之助は藩主らの期待を背負って、田舎の小藩を改革していく。
 桜田門外の変、第二次長州征伐、大政奉還、王政復古の大号令、鳥羽伏見の戦い、そして戊辰戦争。時代の波は、継之助の長岡藩にも襲いかかろうとしていた。

 河井継之助を描いた短編集に「英雄児」という作品がありますが、こちらは継之助が自らを長岡藩という小さな器にうずめようとしたことの悲劇を中心に描いておりますが、本作品では継之助の武士道と陽明学的儒教をより詳しく描いております。継之助は「長岡藩士」という立場を強く意識ていました。早くから封建制の崩壊、つまり武士の世の終わりを予測し、既存の武士社会を次々と改革していきました。彼の武士道とは、精神論や心構えではなく、現実に国を守るべく力を備えた戦士たること、だったのではないかと思います。ものの見方や考え方を読むと、坂本竜馬によく似ていると思いました。二人の違いは、竜馬は土佐藩郷士の出身で、脱藩して活躍したことに対し、継之助は譜代大名・牧野家の家臣としての立場から動こうとしなかったことです。仮に、継之助も脱藩して活動していたら、海援隊ももっと別の歴史を歩んだのではないか??そんな気がします。

 ちなみに、司馬遼太郎氏は「竜馬がゆく」の連載を書き終えてから、この作品を書き始め、この作品の次に「坂の上の雲」を書いたそうです。この順番になるのは、わかる気がします。

主な登場人物
<長岡藩の人々>
河井継之助かわい つぎのすけ
本小説の主人公。早くから封建制の崩壊と武士社会の終焉を見抜き、藩の行く末を案じる。陽明学の影響を強く受け、長岡藩士としての立場と武士道を強く意識し、確かな指導力で幕末の長岡藩を導いた。

小山良運こやま りょううん
藩の御典医小山家の惣領息子。江戸・適塾・長崎で医学のみならずヨーロッパ情勢や政治・経済なども学んだ。継之助と同年でもあり、よき相談役でもある。

梛野嘉兵衛なぎの かへえ
継之助の妻・おすがの兄。良識・常識を備えた教養人。既存の武士社会を変革させる義弟の行動に戸惑いながらも、その才覚と指導力を認めて補佐していった。

牧野忠恭まきの ただゆき
長岡牧野家11代藩主。三河西尾松平家から養子として来た。殿様連中の中では明晰な頭脳を持っており、幕府からその力を頼られて寺社奉行・京都所司代・老中と重職を歴任する。幕末動乱の中で譜代大名としての立場を強く意識し、継之助を抜擢して藩政を任せる。

牧野忠訓まきの ただのり
長岡牧野家12代藩主。病弱ではあるが、幕末動乱の時期にあたり、小藩ながらも譜代大名という立場を重視。徳川家の救済のため、病をおして京に上る。先君に引きつづき、継之助を深く信頼して長岡藩の行く末を任せた。

<幕府側の人々>
板倉勝静いたくら かつきよ
備中松山藩主。山田方谷を抜擢して藩財政を建て直す。老中就任後は、優れた頭脳と分析力で幕末乱世を読み解き、幕政の先頭に立った。

山田方谷やまだ ほうこく
もとは百姓身分であったが、経済学の知識をかわれて備中松山藩士となり、実質的に藩政を掌握して財政改革に着手。火の車だった藩財政を建て直したその手腕は領民にも讃えられた。継之助が師と見込む。

福地源一郎ふくち げんいちろう
長崎の町医の子。幼少の頃から学問に優れ、神童と讃えられた。語学の才をかわれて幕府の翻訳方となる。頭の回転が速い優秀な人物であるが、やや軽薄で口が軽い。後に、東京日日新聞の主筆となる。

福沢諭吉ふくざわ ゆきち
豊前中津藩士の子。長崎・適塾でオランダ語を学び西洋事情に通じる。咸臨丸の渡米に同行し、幕府の翻訳方となった。西洋文明の発達とそれを支えた国家土壌の本質を見抜き、後に日本を文明国にすべく若者の教育に力を入れることになる。

立見鑑三郎たつみ かんざぶろう
桑名藩士。文武両道の侍で、槍術に長ける他、主君が京都所司代として京都に赴任した時は藩の外交掛となった。その後、幕府に籍を置いて洋式歩兵隊の士官となる。鳥羽伏見の敗報を聞き、同僚や部下を集めて「雷神隊」を組織。関東・北越と新政府軍を苦戦させながら戊辰戦争を戦った。
維新後、「尚文(なおぶみ)」と名乗って陸軍に加わり、西南戦争・日清戦争・日露戦争で活躍する。

<新政府側の人々>
山県狂介やまがた きょうすけ
長州藩士。奇兵隊総督として活躍した。長岡戦争では、新政府軍の参謀として軍を指揮。継之助と戦う。後の明治の元老・山県有朋。

岩村精一郎高俊いわむら せいいちろう たかとし
土佐宿毛出身の書生。若干24歳で新政府の北陸先鋒軍の軍監に抜擢される。慈眼寺の会見で継之助の嘆願書取次ぎを固く拒否し、長岡戦争の火蓋を切った。

<外国商人>
ファブルブランド
スイス人の青年冒険商人。一獲千金を狙って開港されたばかりの横浜に店を構える。継之助と親交し、西洋の情報を惜しみなく伝えた。

エドワルド=スネル
国籍不明の冒険商人。多国語を操って横浜に店を構える。イギリスと、イギリスが支援する薩長を敵視し、幕府・東北諸藩を支援。継之助にガトリング砲を含めた多くの西洋新式銃を売った。

昭和41年11月〜43年5月 毎日新聞掲載小説

侍庵トップページへ戻る