米沢上杉まつり

2005年5月3日

 山形県の南方に位置する米沢市は、戦国時代は伊達家の本拠地として栄えていたそうです。しかし、豊臣秀吉の天下統一により、伊達家は国替えを命じられて転封。その後、米沢は越後から転封された上杉家の領土となりました。その後、関が原の戦いで上杉家は西軍に属して戦ったため、領土を大幅に削減されてしまいます。時の当主・上杉景勝は家臣を率いて米沢に本城を置きました。それ以後、明治維新まで上杉米沢藩は存続しました。
 上杉米沢藩の藩祖は、実質的には上杉景勝なのですが、たいていはその景勝の叔父であり、あの織田信長もその武力を恐れたという上杉謙信が上杉家の祖とされることが多いようです。そのような歴史の流れを受けた現在の米沢は、伊達家縁の土地というよりも上杉家縁の土地であり、上杉家の史跡があちこちにあります。
 そして、藩祖・上杉謙信が主役のお祭り「米沢上杉まつり」が古くから行われており、まつりの題材は川中島の戦いなんです。石和、上越と合わせて「川中島三大祭り」というふうに呼んでいる人もおります(笑)。そんなわけで、一度は行ってみたいと思っていた米沢上杉まつり。今年は、飯綱武蔵守法達殿のお世話になって、自作の赤い甲冑で武田軍として参戦することになりました!というわけで、GWのお祭り第二弾は戦国合戦絵巻の「米沢上杉まつり」に決定!いざ、米沢 o(^o^)/!!


5月2日
 佐倉時代祭りの翌日。この日米沢では、前夜祭として上杉軍の出陣式「武蹄式」が上杉神社近くの広場にて開催される予定でした。この日は千葉県にいた拙者は、同じく米沢に向かう碓氷雪殿と合流して(此度は碓氷殿は応援&写真撮影係りです)、夕方に米沢に到着しました。今回、自前甲冑武者の幹事役を引き受けてくださった飯綱殿一行と合流して、会場に向かいました。着いた時には日も沈んですっかり夜。5月とはいえ、ちょっと冷え込みが厳しかったですね(>_<)。会場は既に観客で埋まっておりました。武蹄式の会場には、有料の指定席と無料の自由席があるんですね(拙者は会場についてからそのことを知りました(^_^;))。飯綱殿たちは準備よく指定席をとっていらっしゃったのですが、拙者と碓氷殿は席がなし(汗)。観客席の後ろから立ち見している人がたくさんいる中で都合よく空席を見つけられるわけもなく、少しでもよく見える場所を探していたところ、軒猿頭殿と一樹殿がとっていた席になんとか入れてもらうことができました(^-^)。お二人にはまことに感謝です。



(写真提供:碓氷雪殿)

広場に設けられた祭壇に向かい、護摩を焚いて祈りを捧げる謙信公。そこに、上杉家の28人の武将が続々と集まり、床机に腰掛けていきました。
全員が揃うと謙信公と28将は舞台に上がり、上杉軍の兵士たちがその前に姿を現しました。
子供武者は剣道の型稽古を。槍組は槍の演武を。さらに米沢藩鉄砲隊も火縄銃の演武を行い、最後は勝ち鬨を上げて武蹄式は幕を閉じました。

 武蹄式終了後は写真撮影タイムです。米沢上杉まつりの特徴は、このような観客サービスの時間をプログラムに用意しているところが一つだと思いました。ちなみに、上杉播磨守定景殿は、この時から既に小具足に陣羽織姿だったのですよね。仲間内ではもう見慣れておりますが、知らない人にとってはどう見ても「お祭り参加者」の姿です。なので、観客に写真撮影を頼まれていらっしゃいました(^-^)
 続きましては仲間内での前夜祭、ということで宴会が始まりました。この時、初顔合わせとなった鈴木繁友殿、毛虫丸殿、そして「ゆるり」の雷音丸さんご一家と挨拶を交わしました。鈴木殿は、今回は撮影&応援係り、ということでしたが、いずれは自前甲冑を用意して積極的に参加されるそうです。雷音丸殿も今回はご見学、とのことでしたが、子供泣かせで有名な片肌脱ぎの甲冑を所有されていらっしゃいます。次回は、ご一緒に参加したいです!宴の途中から、やーたろー殿とご友人も合流し、楽しい前夜祭は過ぎてゆくのでありました。


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