浅野内匠頭、勅使饗応役を拝命

赤穂浅野藩主の浅野内匠頭長矩あさのたくみのかみながのりが、勅使饗応役を命じられたのは実は2回ある。1回目がこの時、2回目が刃傷事件に及んだ時である。1回目の勅使饗応役を命じられたとき、内匠頭は17歳の青年大名であった。先代藩主であった父の長友は、延宝3年(1675年)に没したため、9歳で家督を継いで藩主となっている。
なお、1回目の勅使饗応役の指導にあたったのは、吉良上野介義央(当時43歳)であった。また、浅野内匠頭が前年に朝鮮通信使饗応役を命じられた時も、指導役は吉良上野介であった。2年連続して、饗応役と指南役という関係があったのである。浅野内匠頭と吉良上野介の関係は、実はこの時から始まっていた。しかし、この時はさほどの問題も生じなかったようで、無難にこなしたようである。18年後、二人の関係に亀裂が生じて、歴史に残る一大事件に発展するとは、おそらく誰も想像できなかっただろう。

四十七士物語年表へ戻る