1683 | 天和3年 | 2月6日 | 浅野内匠頭長矩(以下、「内匠頭」)、勅使饗応役を拝命。 |
5月 | 内匠頭・阿久里の婚儀が行われる。 | ||
1701 | 元禄14年 | 2月4日 | 内匠頭、二回目の勅使饗応役を拝命。 |
3月14日 | 内匠頭、江戸城松の廊下で吉良上野介(以下「上野介」)に刃傷に及ぶ。 田村右京大夫邸にお預けとなり、切腹。 |
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内匠頭刃傷事件を伝える使者が、江戸から赤穂へ出発する。 | |||
3月19日 | 江戸から急行した使者が到着。 | ||
赤穂城下は大騒ぎとなるが、家老・大石内蔵助良雄(以下、内蔵助)らが事態の収拾にあたる。 | |||
3月26日 | 上野介、御役御免を願い出て辞職。 | ||
4月19日 | 赤穂城、明け渡される。 | ||
6月28日 | 内蔵助、京都山科に居を移す。 | ||
8月19日 | 上野介、呉服橋邸から本所松坂町へ屋敷替え。 | ||
11月10日 | 内蔵助、江戸で急進派浪士らと会合し、討ち入り決行を翌年3月頃と決める。 | ||
12月12日 | 上野介が隠居。孫の義周が家督を継承。 | ||
この頃、高田郡兵衛、脱盟。 | |||
1702 | 元禄15年 | 1月14日 | 萱野三平、摂津の自宅にて自害。 |
2月15日 | 山科会議が開かれる。 | ||
4月 | 内蔵助、妻・りくを離別。 | ||
7月18日 | 浅野大学長廣に安芸浅野家お預けの処分が下される。 | ||
7月28日 | 円山会議が開かれる。 | ||
9月19日 | 大石主税らが江戸へ下向。 | ||
10月7日 | 内蔵助らが江戸へ下向。 | ||
10月26日 | 内蔵助らが川崎平間村へ到着。 | ||
12月10日 | 大高源吾、吉良邸で茶会が催されるという情報を入手。 | ||
12月14日 | 深夜、47名の赤穂浪士が吉良邸に討ち入り。 | ||
12月15日 | 赤穂浪士、泉岳寺にて仇討ちの成功を報告し、幕府に自訴。 | ||
赤穂浪士の処分を巡って議論が分かれる | |||
1703 | 元禄16年 | 1月22日 | 幕府、浪士らに「親類書」の提出を命じる。(26日に提出。) |
1月下旬 | 浪士処分を決める投票が行われる。 | ||
2月1日 | 綱吉が公弁法親王と会談 | ||
2月4日 | 内蔵助ら46士、切腹。 吉良義周、知行地を没収され信濃高島城へ配流。 |
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