赤穂浪士切腹までの道のり

吉良上野介を打ち果たして本懐を遂げた46名の赤穂浪士達は、その身を幕府の裁定に委ねることになった。最終的には、彼らは切腹となるのであるが、そこに至るまでには多くの人々の思惑が絡んでいたのである。ここでは、討ち入り後の赤穂浪士と幕府、そして庶民の思惑を見ていく。

討ち入り直後

将軍・徳川綱吉は、大石らが作成した討ち入り口上書を読み、彼らの行動を忠義であると褒めた。また、老中の阿部正武あべ まさたけ)は
「かねてから上様は家臣は文武忠孝を心がけるようにと教え、ご自身も四書五経を講じて人倫の道をお説きになっていらっしゃいました。それが形となって現れたのでしょう。」
と、討ち入りを忠義の行動と見て褒めている。同じく老中の小笠原長重おがわさら ながしげ)は
「赤穂浪士の行為は武士道にふさわしいものであり、真実の忠義であるから永預かりの処分にしたい。」
と、浪士らの助命を希望している。
一方、庶民では赤穂浪士討ち入りが大ニュースとなり、彼らは一躍ヒーローとなって話題を独占したようである。ある商人は手紙に「江戸中の手柄」と書き記している。また、こんな落首が現れた。

たのもしや 内匠の家に 内蔵(くら)ありて 武士の鑑を 取り出しにけり

歌意
頼もしいことではないか。内匠の家(浅野内匠頭)に内蔵(大石内蔵助)があって、武士の鑑を取り出してきた。

このように、討ち入り直後は幕府、庶民共に討ち入りを忠義の行動と褒め称える声が圧倒的に多かったのである。対照的なのは吉良上野介の実子・上杉綱憲と上杉家であった。綱憲は実父の仇を討とうとしたのだが、幕府から畠山義寧はたけやま よしやす)が使者として派遣され「裁きは幕府が取り仕切るので手出しは無用。」と、上杉家による仇討ちを制止させたのである。こう言われては、上杉家も幕府の制止を振り切って赤穂浪士を襲撃することはできず、幕府の動向を見守るより他がなかった。
忠義の士と褒められている赤穂浪士であったが、彼らは自分達の処分については覚悟ができていた。切腹である。討ち入り後の12月15日、泉岳寺にて赤穂浪士の一人、三村次郎左衛門が母に宛てた手紙にはこのように書いている。

みな共、検視次第 切腹仕る筈に御座候

切腹とは武士だけに許された「死」の手段であった。切腹と言い渡されれば、彼らは「武士」として死ぬことができ、武士の面目を立てることはできる。しかし、「打ち首」と言い渡されれば、それは「罪人」として処刑されることである。

赤穂浪士への批判

しかし、赤穂浪士らは褒められてばかりいたわけではない。彼らの行為を非難する意見が現れたのである。その一つは、討ち入りが武家諸法度に違反している、というものである。武家諸法度には「徒党を組み誓約をなす事を禁ず」という文があるが、彼らは討ち入りのために集団となって(徒党を組んで)動いていた。もう一つは討ち入りまでの経過を非難するもので、「町人や人足などに身をやつし、夜中に人家に忍び込むのは武士道に反する行為であり、夜盗同然の行いである。打ち首にすべき。」という厳しいものであった。
このように、浪士らの処分については意見が分かれて紛糾し、なかなか裁断が下されなかった。年が明けて1月になると、江戸市中ではこの煮え切らない状況を揶揄するような落首が現れた。

四十七 捨てる命に 年をとり

儒学者の見解

赤穂浪士の沙汰については、学者もそれぞれの意見を述べている。まず赤穂浪士助命を唱えたのが聖堂学問所を取り仕切る大学頭(だいがくのかみ)・林信篤はやし のぶあつ:京学派。号は「鳳岡(ほうこう)」)である。学問好きの綱吉は、将軍宣下を受けた翌月には林を招いて議論をし、その後、林家の私塾を湯島聖堂に移築して林を大学頭に任命。旗本や御家人に朱子学を講義させたという経緯がある。林の論をまとめると

昔から主君の仇はとるというのが人の道の大原則である。今、赤穂浪士に厳罰を加えれば、天下に笑われることはもちろん、忠義の道が廃れることは間違いない。

となる。林は赤穂浪士を忠義の士とし、助命を唱えた。一方、綱吉の側用人・柳沢吉保のお抱え学者である 荻生徂徠おぎゅう そらい:古学派)は林の意見とは対立するものであった。
「そもそも浅野が吉良を殺そうとしたのであって、吉良が浅野を殺そうとしたのではありません。だから、吉良は浅野の仇ではありません。浅野は殿中にも関わらず刃傷に及んだが打果せずに罰せられました。浪士たちは浅野の邪志を継いだ者であり、義士ではありません。」
と、赤穂浪士は「義士」とは言えないとしている。そして
「忠義だけを唱えるのは時勢を知らないことであり、天下の政治ではありません。浪士たちを助ければ上杉家の面目は立たず、敵討ちの名のもとに上杉家と浅野家の間で争乱になります。それを防ぐために、一刻も早く死罪にするべきです。」

と、浪士らを厳しく処罰するように説いている。
しかし、徂徠もこのように言いながら
その志を推すに、また義と謂べきのみ
と、浪士の忠義の心は認めているという。

<参考>
・NHK「その時歴史が動いた 第161回 忠臣蔵お裁き始末記」
・忠臣蔵のことが面白いほどわかる本(中経出版)
・歴史群像シリーズ57 元禄赤穂事件(学研)

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