赤穂混乱

江戸から急行してきた使者によってもたらされた、主君の刃傷事件の報が広まると、赤穂は大騒ぎになった。国家老・大石内蔵助良雄おおいしくらのすけよしたか(43歳)は、赤穂の混乱を鎮めるべく指揮にあたった。藩札引換を行って領民の不安を取り除いた。
27日〜29日にかけて、藩士を総登城させ、城内で大評定を開き、今後取るべき行動についての話し合いが行われた。激昂する一部の武士達は籠城抗戦を唱えた。勇敢な論であるが、あまり現実的ではないだろう。大石は、赤穂城受け取りにやって来る受城目付宛てに
「喧嘩相手の吉良上野介は何の処分も受けていないのに、城を明け渡す事は出来ない。家中の者が納得できる処置を願う。」
という内容の「鬱憤之書付」を作成し、江戸に使者を送った。
しかし、使者が江戸に到着する前に受城目付は赤穂に来てしまう。大石は受城目付の城検分に立ち会っている時も、ひたすら赤穂浅野家の再興と吉良の処分を嘆願したが、結局は受け入れられなかった。
この間、家老の大野九郎兵衛などは、藩札処理問題で岡嶋八十右衛門と揉めて赤穂を逐電してしまっている。他にも、赤穂を捨てて逃げ出した藩士はいるようだ。しかし、大石にとってはその方が好都合だったのかもしれない。自らの保身を優先して逃げ出す者は、大石がこれからやろうとしていることには必要なかっただろう。後に、大石は自分の存念を語り、それに賛同する者から起請文きしょうもん神文しんもん:誓約書のこと)を取ったのである。現在、その時の起請文と思われる書が残っており、それには以下のような内容のことが書いてあるらしい。

このたび申し合わせの本意を相達し申すべく候 親族に一切洩らし候まじく候

訳:今回話し合って決めた我らの本懐は必ず遂げます。親戚一同にも秘密にします。

この起請文を集める場面は、映画などでもよく描かれているが、いつ頃書かれたものなのかは、わかっていないらしい。また、「本懐」についての内容も不明である。
大石は4月14日に、堀部安兵衛、奥田孫太夫、高田郡兵衛ら、江戸在中組の代表が赤穂に到着し、彼らと面談した。後にこの3名は、吉良邸への討ち入りを積極的に唱え、大石に討ち入りの決行を催促していたため、江戸急進派と呼ばれている。会談の結果、3名は納得して江戸に戻ったようである。これを考えると、大石の本懐とはこの時既に「討ち入り」だったのかもしれない。

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