高田郡兵衛脱盟

高田郡兵衛は200石で江戸詰であった。生没年は不詳だが、槍の達人であり、その腕をかわれて赤穂浅野藩に仕えた。
郡兵衛は堀部安兵衛らと並んで、討ち入り決行を強く唱える江戸急進派の一人であった。しかし、この頃、脱盟してしまっている(脱盟の時期については定かではない)。その理由は、伯父の内田三郎右衛門から養子になるように頼まれ、他家に仕官する道を選んだとか、兄が内田に吉良邸討ち入りの真意をもらしてしまったために、口外を防ぐためにやむを得ず養子になった、などと言われているが、理由は定かではない。
討ち入り後、郡兵衛は泉岳寺へ祝い酒を持って浪士たちにふるまおうとしたが、彼らの反応は冷たく、罵声を浴びせられたという。
その後の郡兵衛の消息は不明。

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