泉岳寺凱旋

泉岳寺に到着した一行は、主君の墓前に吉良上野介の首を供え、仇討ち成功の報告を行った。
刃傷事件から1年と10ヶ月。彼らはここに本懐を遂げることができた。この後のことは、幕府の判断に身を委ねるということで、吉田忠左衛門と冨森助右衛門が泉岳寺への凱旋途中で一行を離れて、大目付の仙石伯耆守邸へ出向いて事の次第を報告した。また、この間に寺坂吉右衛門が姿を消しているため、幕府に身柄を預けられたのは46名となっている。寺坂は吉田忠左衛門配下の足軽で、大石らの密命を受けて密かに姿を消したとも、脱走したとも言われている。その後、寺坂は享保8年(1723年)に山内家に仕え、暇をもらった後は江戸で過ごし、麻布の曹渓寺に葬られた。

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