浅野内匠頭刃傷事件

3月11日、勅使らが伝奏屋敷に到着。
12日、勅使一行は将軍・綱吉と対面。
13日、勅使饗応の能が披露される。
勅使の江戸下向の儀式は、ここまでは特に問題もなく、順調に進んだようである。刃傷事件が起きたこの14日は、一連の儀式の最終日であった。
刃傷事件のあらましを伝える資料はいくつかあるようだが、ここでは最も信頼できると思われる『梶川氏筆記』の記述を基にした。その理由は、筆者の梶川与惣兵衛頼照かじかわよそべえよりてる(当時55歳)は、この刃傷事件を目の前で目撃し、吉良上野介に斬りかかろうとする浅野内匠頭を抱きとめた人物、ということである。
これによると、梶川と吉良が、刻限が早くなったということを一言二言話しているところ、吉良の後ろから誰かが
「この間の遺恨、覚えたるか」
と叫んで斬りつけた。この時の太刀の音は大きく聞こえたが、実際には浅手だったらしい。
驚いて見てみると、斬りつけたのは饗応役の浅野内匠頭であった。吉良は「是れは」といって、後ろを振り返ったところで二太刀を受け、さらに浅野から逃げようとしてたところ、背後から二太刀斬りつけられ、そのままうつ伏せに倒れた。この時になって、梶川が浅野にとびかかった。梶川の片手が浅野の小刀に当たったので、そのまま押しつけすくめた。その間に、近くにいた高家衆、院使饗応役の伊達左京亮、坊主衆など、近くに居合わせたものが次々とやってきて浅野を取り押さえた。
とのことである。

刃傷松の廊下
仮名手本忠臣蔵三段目に描かれた刃傷松の廊下。仮名手本忠臣蔵は江戸時代に歌舞伎の演目として作られた物語で、赤穂事件をモデルとしている。一般に、「忠臣蔵」と呼ばれるこの物語の名前の由来はここから来ている。

吉良は何時の間にやら姿が見えなくなっていたが、浅野は大勢に取り囲まれながら
「吉良の事は、この間、『中意趣』のことがあったからである。殿中であり、今日の事はまったく恐れ入ることではあるが、是非に及ばず、打果した(注:吉良は軽傷であり、もちろん死んでいない。)。」
と、繰り返し何度も大声で言った。「もう事は済んだのだから、だまりなさい。」と言ったところ、それ以後は何も言わなかった、という。
その後、浅野、吉良共に取調べを受けているが、結局刃傷の原因については何もわからなかったようだ。
結果、浅野内匠頭は切腹。赤穂浅野藩は領地没収・お家取り潰しとなった。一方、吉良上野介には一切お咎めなしとなり、騒ぎを止めた梶川与惣兵衛には手柄として500石を加増された。
浅野内匠頭は罪人同様の扱いを受けて、田村右京大夫邸に運ばれ、幕府目付けの立会いのもと、切腹して果てた。浅野は家来に手紙を書きたいと言ったが、それは認められず、代わりに伝言が許可された。浅野の言葉を、田村家の者が筆記した「覚書」を浅野の家来に渡すのである。覚書の内容は

「此の段、兼ねて知らせ申すべく候へども、今日止む事を得ず候ゆえ、知らせ申さず候、不審に存ずべく候」

というものであった。結局何があったのかはわからない。こうして、浅野内匠頭は刃傷に及んだ具体的な原因については一切不明のまま、切腹して果てた。切腹に立ち会った幕臣・多門伝八郎おかどでんぱちろうの『多門伝八郎筆記』は、浅野の辞世の歌をこう記している。

風さそう 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん

浅野内匠頭の遺骸は片岡源吾右衛門らによって、江戸の泉岳寺に葬られた。立ち会ったのは数名であり、大名の埋葬にしてはたいへん寂しいものであったという。この時、片岡源吾右衛門は亡君の墓前で復讐を誓って髻を斬ったという。こののちに、彼は同じ江戸勤めで親友の礒貝十郎左衛門と共に、あだ討ちのために独自に行動を始めた。

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