泉岳寺に凱旋した後、寺坂吉右衛門を除いた46名は、松平(久松)、水野、細川、毛利の4家の江戸屋敷にお預けの身となっていた。
この日、幕府から切腹を伝える使者が4つの大名家に派遣され、46名の赤穂浪士はその日のうちに預けられた大名家で全員切腹となった。同じ日、吉良家当主の吉良義周が呼び出され、赤穂浪士討ち入りの際の仕方不届き、という理由で吉良家は領地召し上げ、お家断絶となり、義周は罪人として信濃高島へお預けの身となった。
大石内蔵助は細川邸に預けられていた。「細川家御預始末記」によると、細川邸への使者となった幕府の目付・荒木十左衛門は大石を呼び寄せ、自分の意志で、大石に吉良家がお家取り潰しになったことを伝えた、と記録されているらしい。また、「堀内伝右衛門覚書」(堀内伝右衛門(ほりうち でんえもん):細川家の家臣。内蔵助らの世話にあたった。)にも、大石一人が幕府の使者に呼び出されて何か告げられ、内容を後で知ったと記されているという。
吉良義周は「仕方不届き」と裁断されたが、討ち入り時の彼の行動はどのようなものだったのだろうか?
不届きというからには、ろくに戦いもせずに逃げ回ったとか、事が終わるまで隠れていた、などが想像されるだろうが、事実は全く逆である。彼は薙刀で武林唯七ら浪士数名と渡り合い、数箇所に傷を負って負傷している。その後の経過は不明だが、幕府の役人が検分に来たときは、傷ついた体を起こして役人を迎え、屋敷を案内している。所領が没収されるほどの醜態はさらしていないように思えるが、幕府は吉良家に対して厳しい態度で接している。前年の浅野内匠頭刃傷事件の時とは、反対の接し方と見ていいだろう。
こうして、一連の赤穂事件は幕を閉じた。