吉良邸、本所松坂へ

吉良上野介の屋敷は江戸城の城郭内、呉服橋門のすぐそばにあったが、隅田川の東の本所松坂町へ移された。これは自主的な引越しではなく、幕府からの命令である。
この屋敷替えの理由については、呉服橋邸近隣の蜂須賀家などから、赤穂浪士が討ち入ったら迷惑だ、と言われたためとか、幕府から嫌われたためとか、あるいは単純に、高家筆頭職を辞して無役となったため江戸城の近くに住む必要はないから、などいろいろな説がある。
転居命令の狙いについてはさておき、江戸城外への転居によって、赤穂浪士が討ち入りやすくなったのは、間違いないだろう。
ちなみに、引越し先は松平登之助の空屋敷であったため、改築が行われた。

この吉良邸転居により、今すぐにでも討ち入りを行いそうな勢いを持つ堀部安兵衛ら江戸急進派は、この事実を手紙で内蔵助に知らせている。以前から、江戸急進派は討ち入りの決行を内蔵助に催促していたが、内蔵助は時期尚早だと慰撫に務めていたことが、書簡の往来記録で明らかになっている。血気盛んな江戸急進派といえども、吉良邸が江戸城内にある時にはさすがに手が出しにくいが、城外の本所松坂なら討ち入りはかなり容易になる。吉良邸の転居は江戸急進派を刺激し、今にも暴発しそうな勢いになったため、内蔵助は慰撫の使者を送らざるをえなかった。

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