綱吉と公弁法親王の会談

綱吉は、年賀の挨拶に江戸城を訪れた上野寛永寺の皇族の僧・公弁法親王こうべんほっしんのう)に、赤穂浪士の処分について相談した。公弁法親王は輪王寺門跡(りんのうじもんぜき:日光の輪王寺の住職(門跡)は、天台座主(てんだいざす:天台宗の最高位の僧))となり、日光と寛永寺を管理した。別名は日光門主(にっこうもんず))であり、高僧中の高僧である。
綱吉は
「赤穂浪士の忠烈は今の時勢には珍しいものであり、命を助けたいのだが、天下の政治のことを考えると切腹させねばならない。法親王はどうお考えか?」
と尋ねたところ、法親王はこう答えたという。
「彼らの本懐は達成され、もはやこの世に思い残すことはないはず。だから幕府の裁定に身を任せようと申し出たのです。今さら命を助けても忠義の士なればこそ二君にまみえる事を良しとするはずもありません。このような忠義の者たちを許し、のたれ死にさせるよりは武士の道を、立てて死を与えることこそ、その志を立てることとなるでしょう。」
この言葉を聞いて、綱吉は赤穂浪士を切腹とすることに決めた、と言われている。


徳川実紀の信憑性

この話は徳川家の正史である「徳川実紀」(詳しくはこちら)の本編と附録に書かれている話である。
興味深いことに、上記の話は本編に書かれているものの、附録には、法親王は綱吉の問いには何も答えずに帰った、と記されており、矛盾しているのである。両方とも、この話は伝聞として記述されているため、実話とは断定できないと思われる。
また、徳川実紀自体が赤穂事件に関しては幕府の都合のいいように編集されたとして、信用できないという説もある。

<参考>
・NHK「その時歴史が動いた 第161回 忠臣蔵お裁き始末記」
・忠臣蔵のことが面白いほどわかる本(中経出版)

四十七士物語年表へ戻る