二回目の饗応役

この日、内匠頭は老中らから勅使饗応役を命じられた。同じく接待にあたる院使饗応役は伊予宇和島の伊達村豊(当初は「宗春」と名乗っていたが、後に改名)で、饗応指南役は吉良上野介であった。
内匠頭にとって2度目の饗応役になるが、前回はかなり前のことである。5年前の元禄9年に、三次浅野家が饗応役を務めていたのでその時の記録を借用して準備にあたったらしい。
そもそも、この勅使の江戸下向は、毎年行われている恒例行事のようなものだった。毎年正月に幕府から高家が使者として朝廷に派遣され、年賀を申し上げる(この年の幕府の年賀の使者は吉良上野介)。その答礼の使者として勅使が派遣されるのである。勅使饗応役は、この答礼の使者の接待が役割で、幕府は4〜5万石級の大名を選んで、饗応役を命じていた。赤穂浅野家の石高は5万3000石であり、勅使饗応役に選ばれるクラスの大名である。浅野内匠頭は2回命じられたが、3回以上命じられた大名も多い。最も多く命じられたのは、石見津和野藩(4万3000石)の亀井茲親かめいしげちかで、5回も命じられている。

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