早駕籠

3月14日17時頃、主君刃傷事件という凶報を伝えるべく、江戸から赤穂へ早駕籠はやかごが飛んだ。刃傷事件を知らせる第一の使者となったのは萱野かやの三平と、早水藤左衛門の2名。
江戸から赤穂までは約155里(約620km)の距離であったが、3月19日の早朝(4時頃)、赤穂に到着。家老の大石内蔵助に事件を伝えたのである。

早駕籠
赤穂の入り口、高取たかとり峠の像。当時、遠距離を行く緊急の使者は早駕籠に乗って移動した。乗り心地の良さなどは皆無であり、乗り手は命懸けで振り落とされないようにしなければならなかったという。

この凶報は、一瞬にして赤穂を震撼させた。大名の刃傷事件には前例がある。前例では、事件を起こした大名は領地没収・お家取り潰しの処分が下されている。主家が取り潰されるということは、その家臣全員が収入を失い、浪人に身を落とすことを意味していた。赤穂も例外ではなかった。
同日夜、主君切腹、吉良にお咎めは無しという、幕府の裁断を伝える第二の使者(大石瀬左衛門せざえもん(25)、惣右衛門そうえもん(54))が到着する。

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