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秋山好古肖像

幕末に生まれ、激動の明治時代を生き抜いた軍人・秋山好古あきやまよしふる
「騎兵隊の父」「最後の古武士」などの異名を持つ好古は、(1859年)伊予(現在の愛媛県)の国で秋山家の三男として生まれました。明治維新後、軍隊の近代化推進の一環として騎兵隊の養成を担った好古は、徹底的な研究と努力で、当時「世界最弱」と笑われていた日本陸軍騎兵隊を鍛え上げ、ついに1904〜05年の日露戦争でロシアが世界に誇る「コサック騎兵隊」と対決することに。
いかにして戦力的に劣る軍を率いて、敵を打ち破るのか?
好古は懸命に作戦を練り、事実上の日露戦争最後の陸の決戦・奉天会戦に臨み、激戦を勝ち抜いて日本に勝利をもたらしたのであります。
こちらでは、日露戦争の軍功で「名将」と讃えられる秋山好古を紹介いたします。


安政6年(1859年) 秋山信三郎好古誕生

秋山家は伊予国・松山久松家に仕えるお徒士かちの家だった。お徒士とは足軽よりも一階級上の位で、家禄は10石ほど。父は平五郎久敬、母はお貞といった。秋山氏は伊予の豪族・河野氏の出で、戦国時代から江戸時代まで讃岐・伊賀などを渡り歩き、好古から7代前の秋山久信が伊予松山に戻って久松家に仕えたという。
伊予の言葉は日本で最も悠長な言葉といわれており、そこに暮らす人も穏やかな性格の人が多いという。好古も伊予人らしい穏やかな性格であり、およそ軍人として戦場に出て活躍するような型の人間ではなかったらしい。

明治元年(1868年) 明治維新

この年、約250年続いた徳川幕府が崩壊。時代は大きく変化した。松山藩主の久松家は佐幕側の藩であり、長州征伐などにも加わっていた。そのため、維新後は南の土佐藩が伊予を制圧。久松家は15万両もの賠償金を背負わされてしまった。当然、藩財政は火の車となって倒れ、その藩士達の家の生計も苦しくなった。さらに困ったことに、秋山家ではこの年もう一人の男児が誕生した。のちに海軍に入隊、日露戦争では少佐の階級で連合艦隊司令官・東郷平八郎の頭脳としてバルティック艦隊迎撃の作戦立案を行った秋山真之あきやまさねゆきである。家計が苦しいため、堕胎することも考えられたらしいが、さすがにそれはできなかった。そこで、寺に預けようとしたのだが、数え年10歳の好古は

お父さん、赤ん坊をお寺にやっちゃ、いやぞな。
追っ付け、うち(自分)が勉強してな、お豆腐ほどのお金をこしらえてあげるがな

と言って引き止めたという。「お豆腐ほどのお金」というのは、豆腐ぐらいの厚みの札束、といったところだろうか。真之は兄に助けられた。

教員の道

陸軍学校時代、そしてフランス留学など、騎兵研究に没頭した好古であったが、その少年時代は経済的な理由で教育を受ける機会に恵まれなかった。松山藩には藩校・明教館があり、藩士の子弟は8歳になると、皆その藩校に通っていた。好古も例外ではなく、成績はかなりよかったらしい。しかし、その2年後には明治維新により藩が瓦解。秋山家の生計も苦しくなり、好古も生きるための労働に時を費やす日々を過ごした。
好古13歳の頃、、小学校が設立された。この小学校では、旧士族だけでなく町人の子弟達も入学することができたが、好古は入らなかった。理由の一つは、13歳という、小学校に入るには高い年齢。もう一つは経済的な理由である。のちに中学校もできたが、やはり経済的な余裕はなく、入学はできなかった。経済的に苦しかった秋山家だが、それでも旧士族の中ではまだいくらかましなほうであった。父・平五郎久敬は真面目を絵に描いたような男で、若い頃から徒士目付という役職についていた。「勤務態度は真面目に尽きた」という評判だったらしい。久松藩崩壊後、退職金として600円を受け取ったが、これから成長する子供を抱える秋山家にとっては微々たるものであった。多くの武士はこの退職金を元手に、農民になったり、あるいは商売を始める者などもいたが、久敬は何もしなかった。しかし、何もしない方がよかったかもしれない。商売を始めたものなどは、慣れない仕事に悪戦苦闘し、借財の山を築いて路頭に迷う者も多かった。その一方で、久敬は藩士時代の真面目な勤務態度をかわれて、県の小役人として採用された。薄給だったが、なんとか一家が食いつないでいくことはできた。しかし、子供を学校にやる余裕はなかった。

父・平五郎久敬 母・お貞
秋山兄弟の父・平五郎久敬と、母・お貞の写真。
(愛媛県立歴史民俗資料館蔵)

明治政府は、国民達に学問を大いに奨励した。学問を身につけたものは国家が召抱えることを約束した。戦国時代は武勇で身を立てた者が多数出た時代だが、明治初期は学問で身を立てる時代といえるかもしれない。好古も学校に行きたかった。勉強したかった。が、勉強に必要な資金を用意することができなかった。

ただで学べる学校はないだろうか。

好古は切実にそう思った。そんな中、好古16歳の時、大阪に「ただで学べる」学校ができたという話が飛び込んできたのである。
学問を奨励した明治政府は、学校の数を増やしたのである。当然、学校数だけが増えても、教える教師も増やさなければ学校は機能しない。その点は、知識階級である旧士族を一時的に教師として雇うことで対応していたが、師範学校(教師養成学校)を設立して、ゆくゆくはそこの卒業生を教師として採用し、教育体制を整える方針をとった。大阪にできた「ただの学校」とは、この師範学校のことであった。しかし、この師範学校の入学規定は19歳以上。この時の好古はまだ年が足りない。だが、入学の道は残されていた。人口の多い大阪では、小学校が雨後のたけのこの如く建設されていったが、他の地域よりも深刻な教師不足に悩んでいた。一つの小学校に先生が一人という状況も多かったらしい。元々大阪は商人の町であり、武士が少なかった。幕末社会の特徴の一つは、知識階級である武士が地方に散在していたことである。西洋の革命を担った知識階級は都市に集中し、地方では革命に無関心な者が多かったのとはだいぶ状況が異なった。特に大阪に武士は少なく、教師が不足した。そこで、小学校教師の採用試験を行い、合格者には「五等助教」という資格を与えて小学校で勤務させたのである。五等助教の月給は7円で、一人暮らしなら十分可能な額であった。さらに、本教員の試験に合格すると月給が9円に上がった。大阪に行き、小学校教師として働きながら、師範学校に行ける年になるまで待つ、という方法を好古は選んだ。
明治8年(好古17歳)正月、好古は大阪に渡り、試験を受けて見事に合格。それから間もなく本教員の試験にも合格。「野田小学校」勤務となった。一見、順調に「師範学校」という目標に近づいているように見えるが、意外にも彼は晩年にこの頃のことをこう述べている。

「一種名状しがたい哀しみがあった」

前述のように、大阪は教師が不足しており、この小学校の教師は校長先生一人しかいなかった。この野田小学校の校長は、妻が長州人であるというコネを使ってやってきた男だった。この校長は、自分のことはただの「校長先生」ではなく、「紅鳥先生」という雅号で呼べ、と好古に強要したらしい。「校長」も「紅鳥」も音は同じであるから、どっちで呼ぼうが違いはわからないと思われるが、これに何か意味があるのだろうか?また、好古が佐幕側だった伊予出身であることから、何かにつけて好古を「乱臣賊子」よばわりし、自分が長州側の人間であることを誇っていたらしい。妻が長州人であることだけで、紅鳥は自分に大義名分があると錯覚し、好古に対して優越感を感じていたようだった。しかし、この優越感も長くは続かなかった。
この年の4月、好古は師範学校を受験した。まだ数え年で18歳。規定には一年足りなかったが、その辺はごまかした。そして、見事に合格し、5月に入校した。当時の師範学校は開校して間がなかったため、制度も教育内容もあやふやなものであった。まず、「時ヲ定メズ生徒ヲ募集ス」とあり、入学の時期が決まっていなかったのである。また、修業年限がも設定されていなかった。早ければ一年で卒業することもできたが、なかなか身につかない者には2年3年と時間をかけて教育した。好古は一年で卒業するために一生懸命に勉学に励んだ。しかし、成績はさほどいいものではなく、中ほどだったらしい。それでも、一年で卒業することができた。「三等訓導」となり、月給はこれまでの三倍以上である30円となった。
明治9年(好古18歳)、愛知県立名古屋師範学校の付属小学校に赴任。奇遇にも、ここの付属小学校の主事が同じ松山出身の和久正辰という男だった。紅鳥のときとは異なり、好古は歓迎された。和久は、松山ではわりかし名の知れた秀才であり、小学校の主事でおさまるような人物ではなかった。しかし、不幸なことに、佐幕側に回った松山藩出身である。薩摩・長州出身の秀才は続々と官僚・軍人の道を歩んでいったが、佐幕に回った藩、幕末に何もできなかった小藩出身の貧乏士族には、官費で学べる師範学校を卒業するぐらいが出世の関の山であった。しかし、貧乏士族に出世の道がまったく絶たれていたわけではない。明治政府は明治7年11月に、中央軍の養成を目的として東京に「陸軍士官学校」を設立した。学費がただ(官費で賄われた)であるだけでなく、給料も貰うことができた。そして何より、能力次第で薩長出身者なみに出世できる可能性を秘めていた。和久はこの頃30近い年齢であったが、好古はまだまだ先の長い若者だった。和久は好古にこの陸軍士官学校に行くことを薦め、好古は東京行きを決めた。


<好古挿話 その一>
外人顔だった好古

好古は生粋の日本人であったが、色白で、切れ長の大きな目を持っており、鼻が高く、日本人というよりは西洋人顔であった。実際、陸軍大学校に教師として招かれたドイツのメッケルは、好古を見て「君は西洋人か?」と尋ねた。通訳が「彼は生粋の日本人です。」と答えると、たいそう驚いたという話がある。もう一つ似たような話がある。日露戦争後、日本騎兵隊が兵学の研究対象として話題を集め、多くの西洋人武官が日本を訪れた。彼らの多くは「日本人にロシアのコサック騎兵を破れるわけがない。西洋人の顧問がいるに違いない。」と考えており、千葉の陸軍学校で指揮をとる好古を見て「やはり西洋人顧問がいた。」と信じて疑わず、誤解をとくのにたいへん苦労したという。
こんな西洋人顔の好古は美男子であり、故郷の松山や留学先のフランスではかなり女性にもてたという。しかし、当の本人は「男子に美醜は無用」という信念の持ち主で、ラブロマンスとは無縁だったようだ。自分が美男子だということを人に言われると、かえって不機嫌になるぐらいであったという。
上の写真は大尉の頃のもの。
(愛媛県立歴史民俗資料館蔵)


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