<軍人の道>

明治10年(1877年)正月
好古は陸軍士官学校を受験して合格。歩兵・騎兵・砲兵・工兵の中から騎兵を選択した。ここに、後年、騎兵隊の父と呼ばれた軍人・秋山好古の人生が始まった。好古が騎兵を選択したのには、いくつか理由がある。一つは、修学期間である。歩兵・騎兵は三年間だったが、砲兵・工兵は学ぶ学科が多かったため四年かかった。早く陸軍士官学校を卒業し、少尉となって給料を貰いたかったという経済的なものが一つであった。もう一つ、好古の長い手足が生徒司令副官の寺内大尉に、騎兵に向いていると見込まれたためらしい。足が長くなければしっかりと馬の胴を締めることができず、腕が短ければ白刃を振るって戦う接近戦のときに不利であった。
士官学校の試験は正月に行われたが、好古らの入校は5月4日付となった。遅れた原因は西南戦争である。好古らは三期生であったが、一期生は戦地へ赴き、二期生も出陣間近という状況であり、新入生の受け入れどころではなかったのである。

明治12年 陸軍士官学校卒業
少尉の頃の好古
(愛媛県立歴史民俗資料館蔵)

少尉に任官された好古は、東京鎮台騎兵第一大隊の小隊長を務めることとなった。(「鎮台ちんだい」とは、当時の軍隊の呼称で、明治4年時、鎮台は4つあり、6年には6つになり、六鎮台制と言われた。番号順にいうと東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本である。明治10年の西南戦争では熊本鎮台が西郷の兵を防いで力戦した。鎮台は各地の城に本拠を置き、熊本鎮台は熊本城に置かれていた。「この鎮台制はとても近代軍隊とは言えない」と、のちに陸軍大学校に招かれたメッケルに指摘され、「師団」と名を変えて制度改革された。)それに合わせて下宿先も、勤務地に近い麹町の旧旗本・佐久間家の屋敷に移った。ちなみに、ここの娘の多美がのちに好古に嫁いだが、それはまだ先の話である。
それから間もなく隊付勤務から士官学校の教官となった。ついこの間卒業した生徒が教官を務めるというのは異例の事態であろう。これは当時の騎兵隊がまだまだ発展途上であったことをよく示している出来事である。好古と同期の騎兵科卒業生は、好古を入れてわずか三人という状態であった。元々、日本には「騎馬隊」が活躍した例が少ない。源平・鎌倉時代の武士達は騎馬戦に長けていたが、基本的には名乗りを挙げて行う個人と個人の一騎打ち形式であった。「騎馬隊」という一つの集団として騎兵を用い、戦果を上げることができたのは、好古に言わせれば源義経だけである。その後、時代が移り変わると共に、徒歩の足軽達による集団戦が中心になった。また、日本は山がちな国で、騎兵がその本領を発揮するような平地は少ないという地形的な理由に加え、さらに鉄砲が多量に使用されるようになると、騎兵はますます活躍の場を失っていった。そして、江戸時代に入って平和な時代が訪れた。創設・維持に莫大な費用がかかる騎馬隊は、経済的に苦しかった幕府も諸藩も抱えることは不可能に近かった。また、抱える必要もなかった。
幕末になると、幕府はフランスをモデルとして軍隊の近代化を進めたが、幕府の重臣達はフランス人顧問が言う「騎馬隊」というものがあまり理解できなかったらしい。江戸時代の形骸化した軍制では、馬に乗る戦闘員は上級武士である。「騎馬隊」とは上級武士の集団か?と聞き返したことがあるらしい。もっとも、当時の西洋の軍隊は近代国家が抱える常備軍であるが、日本はいまだに封建社会の影響を強く受けていた。軍の認識に差が生じるのは当然だろう。ただし、騎馬隊がまったく存在しなかったわけではない。版籍奉還までに土佐藩は二個小隊の騎馬隊を持っていた。この騎馬隊が、明治4年に中央軍所属となり、日本陸軍騎兵隊の始まりとなった。二個小隊の馬の数は20頭。近代日本騎兵隊は20頭の馬から始まったのである。

明治16年2月 騎兵中尉任官
同年4月 陸軍大学校へ入学


欧米列強では、士官学校で将校を養成し、その中から優秀な者を選んで大学校に入学させ、高等軍事学を教えて参謀・将官を養成するというシステムをとっていた。日本でもそのシステムを導入することが決まったが、高等軍事学を教える教官がいなかった。幕末期はフランスから教官を招いており、好古も士官学校ではフランス式を学んでいた。そのため、当初はフランスで教官を探すという話があったが、当時のフランスにはナポレオン時代の栄光は残っていなかった。そこで、世界の最先端を行っているという評判のドイツから教官を招こうという話になった。こうして、教官として招かれたのがメッケルである。好古は陸軍の将来を担う大学校の第一期生に選ばれた。選ばれた学生はわずか10人。騎兵科出身は好古のみであった。これは、将来の日本騎兵は好古がひっぱっていくということを暗示しており、事実そうなった。
入学したのは明治16年だったが、メッケルが着任したのは明治18年の3月18日だった。それまで、好古達は士官学校時代に省略されていた数学などの基礎学科を教えられた。
メッケル着任以後、彼が与えた衝撃は大きかった。メッケルは最初の講義で

「わが精強なるドイツ陸軍の一個連隊を予に指揮せしめれば、諸君が全日本陸軍を率いてうちかかろうとも、これを粉砕することはさほどの苦労はいらぬであろう」

と言って学生の度肝を抜いたという。その台詞は法螺などではなかった。メッケルは操典の見直しから始めた。操典というのは、軍隊運動の基礎的動作を書いたもので、好古らは士官学校時代にとっくに習得していたものだった。わざわざ大学校で教えるようなものではない。しかし、メッケルがしばらく話し続けると、学生達は粛然となったという。メッケルが説くドイツ流の操典は徹底して実戦的なものであり、彼の師匠のモルトケは普仏戦争を指揮し、一度も敗れることなくフランス軍を打ち破っていた。メッケルが言うには、これまで日本が使っていた操典は「間違ってはいないが、理論的でありすぎる」と評し、基本から見直しを行っていった。メッケルが指導したのはわずか数年であったが、この間に陸軍の学生はすっかりドイツ派になった。日露戦争を戦った高級将官・参謀のほとんどはメッケルの教え子達である。メッケルは神の如くあがめらることになり、メッケルの死が日本に伝わったときは東京で追悼会が開かれた。

明治19年6月 騎兵大尉に任官
明治20年7月 フランスのサンシール士官学校に私費留学


メッケルの講義で陸軍はドイツ一色に染まっていったのとは裏腹に、好古はフランスへ留学することとなった。これは好古が望んだものではなかった。旧松山藩主・久松定謨さだことのお供なのである。このフランス留学の背景はこんなものである。
明治初年から20年代にかけて、旧大名の私費留学が流行った。理由はいくつかある。

1.殿様は明治維新後に置いてけぼりになった
「賢侯」と呼ばれた人でも、かつての戦国時代のように、戊辰戦争で藩兵を率いて戦場に出た人は一人もいない。政治行政・軍事を担当するには、能力うんぬんよりも性格的に向かなかった。
2.西洋の貴族は一生懸命に練磨する
維新後、西洋の貴族は貴族であるがゆえに、庶民よりも力・知力において凌駕していなければならないと考えられていた。しかし、日本の公卿や殿様は無能者の代表者とされてきた。このままでは華族は新国家から浮き上がってしまう、という焦りがあったらしい。
3.経済的な余裕
幕末は家臣を養うために経済的に圧迫されてきたが、版籍奉還・廃藩置県後は藩士を養う義務を逃れ、石高の大小によって一定の収入を得た。これでかえって経済的には豊かになった。

久松定謨
(松山城蔵)

などなどの理由から、久松定謨はフランスへ留学したのである。しかし、元殿様が一人で外国に行くわけにはいかない。そこで旧藩士がお供として随行し、その随行者に好古が指名されたのである。好古には迷惑な話であった。すでに、陸軍はドイツ式で進化を始めている。ドイツとフランスでは正反対な事が多く、いまさらフランス留学などしたらかえって混乱するのではないだろうか。それに、帰国したら自分だけがフランス流となってしまい、周囲から浮き上がってしまうのではないか。そんな心配が彼の頭をよぎっただろう。おまけに、費用は自前である。しかし、彼の性格では嫌とは言えなかった。好古は渡仏したのである。(費用に関しては、明治23年から官費に切り替わった。)
フランス留学の収穫は「馬術」であった。フランス人は「ドイツ馬術は人間を木か鉄だと思っている。」と悪評していた。実際、好古が調べてみたところ、ドイツの馬術は見た目の凛々しさを重視しすぎるあまり、騎乗者の負担が大きく疲れやすいものであったらしい。後にフランス訪問に来た陸軍中将・内務大臣山県有朋やまがたありともに、好古は馬術のみはフランス式を採用することを進言し、山県も好古に一任した。

明治24年暮
好古帰国。騎兵第一大隊の中隊長となった。それから間もなく陸軍士官学校と、付属幼稚舎の馬術教官を務めたのち、明治25年に騎兵の世話をする最高の役所「騎兵監」の副官となると同時に騎兵少佐に昇進した。

明治26年。多美夫人と結婚。
同年5月5日には騎兵第一大隊長として隊に戻った。この明治26年は西暦になおすと1893年である。

 
<好古挿話 その二>
粗食

好古の異名の一つに「最後の古武士」というのがある。その異名の所以となったものはいくつかあるのだが、その一つに「粗食」がある。陸軍士官学校時代、好古は学校近くに屋敷を構えていた元旗本・佐久間家の離れに下宿していたが、そこでの生活はまさに「質素・粗食」という言葉がふさわしいものであった。食事は、ご飯と味噌汁に漬物だけ、であることがほとんどで、身の回りの物は箸と茶碗が一つずつ、その他少々、といったぐあいであったらしい。この質素な生活に経済問題という側面がないわけではない。給料の一部は貧しい実家に仕送りしていた。が、そこまで生活を切り詰めねばならないほどではなかった。彼の粗食は「哲学」というような信条に基づいたものではなく、「それで事足りるから」という目的主義的なものだったらしい。腹がふくれればそれでいいのである。彼は一般的な成人男子にはとても満足できないこの粗食で、日清・日露の激戦を生き抜き、享年72で病没するまで生きながらえた。


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