<初陣!日本騎兵隊>

明治27年(1894年)2月 甲午農民戦争勃発
1894年にはじまった日清戦争は近代日本最初の対外戦争で、小学校でも教える内容である。この日清戦争についてもいろいろな解釈がなされているが、現代では否定的な見解が多いように思われる。「日本の侵略の始まり」として見られていることが多い。しかしそれは、事件の結果の一部を、日本に厳しい視点から見た結論であり、事実をよく反映した表現とは言えない。ここでは詳細は割愛するが、実際には、もっと当時の世界情勢をよく反映した事件だったと思われる。
甲午農民戦争というのは朝鮮で起こった農民による内乱であった。農民軍の指導者は全ほう(王へんに奉)準という者で、彼は東学(儒・仏・道の3教を合わせた新興宗教で、幕末頃から全羅道・忠清道の農民の間に広がり、やがて農民一揆の様相を呈してきた。)の宣教師であった。朝鮮王朝は鎮圧軍を派遣したが農民軍の勢いは凄まじく、鎮圧軍は敗戦を重ねついに全州城までが農民軍の手で陥落してしまった。この事態に狼狽した王朝は、6月1日、宗主国である清に援軍を要請した。当時、ソウルに滞在していた袁世凱えんせいがいはこれを承諾した。朝鮮における清の優越を確立するにはいい機会である。この情報を仕入れた日本の対応は早く、6月2日には閣議で出兵が決定された。出兵といっても、時の首相・伊藤博文をはじめ、閣僚達には戦争を起こす気はあまりなかった。当時の日本の外交方針は「勢力の均衡」であり、そのために朝鮮や清と種々の条約を結んでいた。これらの条約の一番の狙いは公使館の防衛と清に対する警戒である。今回の出兵も決して非合法的なものではなく、「日本公使館には若干の兵員を置く」という朝鮮と結んだ条約に準拠したものであった。しかし、軍の参謀次長・川上操六かわかみそうろくと外務大臣・陸奥宗光むつむねみつの思惑は異なった。川上と陸奥は、この機会に清と戦って朝鮮における清の影響を排除しようと考えた。川上は短期決戦で清を破り、頃合を見て陸奥が清と有利な条件で和睦する、という段取りで事を進めた。これに対して、伊藤ら閣僚が制約を加えることはできなかった。それは伊藤自身が作り上げた明治憲法にある。明治憲法では、軍の統帥権は天皇にあり、内閣にはない。つまり、軍に対して内閣があれこれ注文をつけることはできないのである。といっても、昭和期の軍隊のように、政治の実権までも軍が握ろうとするような考えは川上らにはなかった。

<当時の軍制について>

日清戦争の話の前に、当時の日本陸軍の軍制について簡単にご説明いたします。
まず、当たり前のことですが、「軍隊」は兵士が何人も集まって構成されています。でも、兵士たちが個人個人ばらばら好き勝手に行動していては、戦に勝つのは難しいです。そこで、何人かを一つのグループに集めて、作戦を立てるときは、グループ単位で軍を動かします。
当時の軍の最小単位は「小隊」です。歩兵なら歩兵、騎兵なら騎兵同士で何人かが集まって小隊を形成します。
この小隊をいくつか集めたものが「中隊」です。
中隊がいくつか集まると「大隊」となります。通常の大隊よりも部隊数が多い部隊は「連隊」と呼ばれます。
大隊や連隊をいくつか集めたものを旅団りょだんといいます。同一兵科のみで構成される部隊は、旅団が最大の単位となります。
こうして作られた旅団、連隊、大隊を集めて、歩兵・砲兵・工兵・騎兵の四兵科すべてを揃えた戦闘集団を師団といいます。これら小隊〜師団までの各単位ごとに「司令官」が一人存在します。
当時の日本軍の場合、数個師団に旅団や連隊・大隊をいくつか補助的に付属させて「軍」を結成しました。日清戦争では第一軍と第二軍が、日露戦争では第一軍から第四軍まで結成されました。
階級について
軍隊では、戦争という極限状況下でも集団の秩序が壊れないように、厳格な上下関係を定めています。この上下関係は「階級」で決まります。
基本的な順序を上から書くと、
大将→中将→少将→大佐→中佐→少佐→大尉→中尉→少尉→兵士
と、なります。「兵士」も、さらに階級がありますが、ここではあまり登場しないので省略します。
「大将」「中将」「少将」をまとめて「将官」、「大佐」「中佐」「少佐」をまとめて「佐官」、「大尉」「中尉」「少尉」をまとめて「尉官」と呼ぶこともあります。「将校」という言葉は、少尉以上を指すようですが、特に「尉官」のことを指すことが多いようです。
第一軍、第二軍といった、「軍」の司令官となるのが「大将」です。それより一つ下の「師団」は「中将」が司令官となり、さらに下の「旅団」は「少将」が司令官となります。「連隊」「大隊」はおもに「佐官」が、「中隊」「小隊」は「尉官」が司令官となるのが基本原則のようです。
ちなみに、秋山好古は、日清戦争の時の階級は「少佐」で、「騎兵大隊」の司令官となりました。好古の騎兵大隊は、二個の騎兵中隊で構成されています。

7月29日大島義昌おおしまよしまさ少将率いる先発部隊がついに清軍と交戦、勝利をおさめた。8月1日には宣戦布告がなされ、第三師団・第五師団からなる第一軍(司令官は山県有朋大将)が編成された(ちなみに、当時の国際法では宣戦布告の時期についての制約はないらしい)。第一軍は9月15日に平壌で清軍を破り、9月17日には日本の連合艦隊が清の北洋艦隊を黄海海戦で破った。大本営だいほんえい(戦争時、臨時に置かれる軍の最高司令部)は第二軍(司令官は大山巌おおやまいわお大将)の派遣を決定した。指揮下に入るのは第一師団(山地元治中将 彼は片目を失っていたため「独眼竜」のあだ名を持っていた。幕末の土佐藩主・山内容堂やまのうちようどうの近習で土佐人)、第二師団、混成第12旅団(第六師団)であり、好古の騎兵大隊は第一師団に所属した。
9月23日。好古率いる騎兵大隊は東京目黒の駐屯地を進発。10月5日、宇品港を出港した。ところで、日清戦争時の日本騎兵隊装備はあまり充実したものとはいえない。まず武器であるが、彼らは長大なサーベルと、小銃(将校は、小銃ではなく拳銃)を装備した。ヨーロッパの騎兵は騎乗者の負担軽減と馬上操作の必要上、銃身を短くした「騎兵銃」を背負ったが、当時の日本には騎兵銃は普及しておらず、歩兵が使った「村田銃」をそのまま背負っていた。使用した馬は西洋人から「馬のような馬」と笑われた日本馬であった。ただし例外として、沢田中尉は洋雑種の白馬(厳密には葦毛で、白地にまばらの斑紋がある)に乗っていた。しかし、軍から白馬の戦場使用を禁止されたため(敵の目標になりやすいから)、なんと緑の染料で染めて緑馬にしてしまったという。宇品港出港前に、師団長・山地中将が軍装検査を行ったときも、この周囲よりも大きな緑馬に乗って整列した。山地中将が緑馬を見て驚き、随行の好古を振り返ると、すかさず好古は「閣下、この馬は元来妙な馬であります」と大声でいったらしい。山地中将は微笑して黙認したという。
10月25日。好古属する第一師団は遼東半島の花園口かえんこうに上陸した。任務は「金州および大連付近の占領」である。遼東半島には、のちの日露戦争で日本人の記憶に刻まれることとなる旅順要塞が高々とそびえていた。好古の騎兵隊は偵察の任務を担うことになった。ちなみに、他の師団では騎兵をばらばらに細分化して歩兵部隊につけたが、軍を編成するにあたり、好古は山地中将に「ばらばらにしては、玉を砕いて使っているようなものです」と進言し、山地もそれを容れた。さらに、防御の弱さを補うために一個歩兵中隊を好古の指揮下に入れ「秋山支隊」と呼ばれる部隊となっていた。
秋山支隊は金州の偵察のために前進。途中、敵騎兵200が接近しているとの斥候からの報告があった。初陣にもかかわらず、好古が鍛えた騎兵は偵察任務を的確にこなし、続々と斥候からの報告が届いた。敵騎兵はこちらの存在にまったく気づかないようで、どんどん接近してくる、とのことである。歩兵中隊長は兵を散開させ、身を隠して射撃の用意をさせた。好古はその中隊長のようにこう言い含めた。
「わしはヨーロッパで大陸というものがどういうものか知っているが、このような広々とした場所では距離を近く見てしまいがちなのだ。十分にひきつけて、2,300メートルまでひきつけてから撃て。」
好古は落ち着いていたが、他の将校は緊張の色が隠せなかった。特に歩兵中隊長のあがりかたはひどく、敵が迫るにつれて好古に射撃命令の許可を要請した。が、好古はまだ遠いと抑えた。しかしついに我慢しきれなくなり、部下に発砲させてしまった。弾は届かず、敵はゆうゆうと引き上げてしまった。好古は笑って前進を命じた。
11月17日。好古は旅順付近の営城子えいじょうしから、司令官の大山宛で旅順攻略戦に関する意見書を送った。彼は多くの騎兵斥候を出し、敵情偵察をさせて情報を集め、それらを分析し、実に的確な意見書を出し、大山巌はじめ参謀達の舌を巻かせた。旅順要塞は、ドイツ人がその地の利を活かしてここに軍港を建設することを進言したのが建設のきっかけであった。明治17年から、清国が要塞化をすすめた。艦隊保護のため、軍港のまわりの山河を鉄で固めており「東洋のセヴァストーポリ」という異名も持っていた。フランスの提督・クールベーは旅順要塞を見て「この旅順をおとすには50余隻の堅艦と、10万の陸軍を投入しても半年はかかるであろう」といったという話もある。
港口は黄金山砲台、饅頭山砲台などで固め、港の背後には鶏冠山、二竜山、松樹山、椅子山などの大堡塁で守り、中央は白玉山堡塁で固めてあった。アジアの近代要塞では間違いなく上位に入る要塞である。しかし、この旅順要塞も、調べてみるとたいしたことはなさそうだ、というのが好古の見解であった。まず、守備兵は一万二千ほどいるが、元々の守備兵は八千五百であり、残りは金州で敗れた兵が逃げ込んでいるだけで士気は低い。さらに、防衛のために多数設置されている砲台も実態は粗末なもので、命中率は意外と低い、など、冷静沈着に敵情を見て取った。大山も好古の意見書を基に旅順攻略を開始することを決め、11月21日に攻撃開始と決定した。

11月18日 土城子どじょうしの戦い
騎乗姿の好古の銅像。しかしこの像は地震で倒壊してしまい、現在は写真のみが残っている。
(愛媛県立歴史民俗資料館蔵)

旅順攻略の意見書を出した翌日の朝、好古は営城子を出発。さらに前進した。午前11時頃、土城子付近で清軍と遭遇してしまった。相手は一個旅団以上の大軍である。一方の秋山支隊は二個騎兵中隊(これで騎兵大隊をなしている)と、山地中将に補ってもらった一個歩兵中隊しかなかった。秋山支隊の主任務は偵察であり、戦闘ではない。当然退却するべきであったが、好古は攻撃を決意した。
まず、騎兵第一中隊は全員下馬させて本道の東側に散開して前進。第二中隊は騎馬戦をさせるべく、本道の西側を進ませた。自分の手元には歩兵中隊をおき、予備隊とした。戦闘開始まもなく、苦戦を強いられた。清軍は兵力でまさっている上に砲まで持っていた。味方は必死に応戦しているが、どこかが崩れれば全面敗走となりそうな状況であった。この戦闘中、変わり者の好古は水筒に入れた酒を飲んでいた。といっても、職務怠慢しているわけではない。大酒豪である彼は、酒を飲んで景気をつけるのではなく、戦場の恐怖から冷静な自分を保つために酒を飲むらしい。兵の士気が下がっていると見るや、彼は馬上で水筒をラッパ飲みしながら前に出た。驚いた副官の稲垣中尉は好古の馬の轡を取ろうとするが、好古はかまわず前進して銃弾迫る最前線までやってきてしまった。少し間違えれば銃弾が彼の体を貫く状況である。にもかかわらず、好古は平気な顔で騎乗したまま酒を飲んでいるのである。この豪胆な行動で兵の士気は回復したが、戦況は不利なままであった。のちに、この状況を騎兵第一中隊長の河野政次郎大尉はこう述べている。

顔つきもかわっていねば、様子も変わらない。恐怖もあせりも困惑もなく、ちょうど酒客がさかずきをかたむけつつ満開の花でもながめているようであった。

たまたま歩兵第三連隊の第三中隊(中隊長は中尉:中万徳二)が戦場付近を行軍していた。「味方騎兵、敵大軍と交戦。苦戦中」の知らせを受けて援軍にやって来たが、参戦まもなく中万中尉が頭部に弾丸を受けて即死してしまった。
どの将校も退却を考えたが、好古はまだ前を向いたまま酒を飲んでいる。さらに悪いことに敵側に砲兵の応援が加わり、ますます砲弾の雨は激しくなった。応援に来た歩兵中隊は退却を始めた。が、好古はかたわらの熊谷通訳官を振り返り、

わしは旅順へ行けと命令されているんじゃ。退却の命令は受けておらん。去る者は去れ。わし一人でも旅順へ行くぞな。それには通訳がいるけん、君だけはついてこい。

と言ったという。のちに、好古はこの時酔っ払っていた、という噂が流れた。本当に酔っぱらっていたのかどうかはわからないが、さらに伝令を呼び、騎兵第一中隊長の河野政次郎大尉に、第一中隊を騎乗させて敵砲兵陣を攻撃するよう伝えた。この状況で攻撃などできるはずがなかったが、命令は命令である。河野大尉は刀の礼をし、部隊に戻った。が、このとき清軍が攻勢に転じた。歩兵を両翼に分けて展開させ、日本軍を包囲しようと肉薄してきたのである。好古は河野大尉に攻撃中止を伝え、退却準備に入った。退却となれば、騎兵は持ち前の機動力でさっさと逃げることができるが、歩兵はそうはいかない。かといって、歩兵は応援に来てくれている以上、捨てて逃げることなどは好古にはできなかった。そこで、まず歩兵を逃がすように退却部署を決めた。勢いに乗る敵軍の追撃を防ぐ「しんがり」は好古自身が行った。主将自身がしんがりを受け持つというのは常識ではありえないが、彼はそれをやった。潰走しがちな軍をなんとかまとめて後退、応戦を繰り返すうちに、援軍の歩兵が到着したためなんとか戦場を離脱することができた。
敗戦であった。
詳細かつ的確な旅順攻略の意見書を出した将と同一人物とは思えない、無謀な戦闘であった。なぜ好古はすぐに退却しなかったのか。これには当時の陸軍の騎兵隊への無理解が関係しているように思われる。そもそも騎兵隊というのは、創設にも維持にもお金のかかる兵科である。しかも、使い方が難しい。うまく使えば戦局をひっくり返すことができるが、それができるのはまれである。そのため、歩兵よりも格段に防御力が弱いという欠点ばかりが目立ち、騎兵はもっぱら偵察任務にあたらされることが多かった。騎兵は役に立つのか?当時の陸軍にはそんな風潮が強かった。好古は騎兵を率いる長として、それら騎兵軽視感と戦わねばならなかった。今回のこの戦いで、もし退却したら・・・?「やはり騎兵は弱い」そんなふうに思われる、騎兵の評価が下がる、そう思ったのかもしれない。
あるいは、この戦いで騎兵の使いどころを好古自身が試してみたかったのかもしれない。兵力で劣っていても、騎兵をうまく使えば敵軍を撃退できることを証明したかったのかもしれない。

11月21日 旅順攻撃開始 同日陥落

土城子で敗北を喫した好古であったが、旅順攻撃は最初の決定通り、この日の未明に行われた。秋山支隊は主力右側の援護に回った。好古の観察通り、清軍兵士の士気は低く、必死で防戦する様子はなかった。旅順は一日で陥落した。日本側の死者は、将校が一名、士官と兵卒は合わせて229名だった。
その後、年が明けて明治28年。北洋艦隊が逃げ込んだ山東半島の要塞「威海衛いかいえい」への陸海共同攻撃が行われた。この戦いは、最初から最後まで日本が主導権を握り、2月12日、北洋艦隊の提督・丁汝昌ていじょしょうが降伏の意を示した。その夜、丁汝昌は服毒自殺。翌13日に、北洋艦隊の公式降伏文書に両軍が署名した。

明治28年(1895年)4月17日 下関条約締結 日清戦争終了

日本の全権大使・陸奥宗光と清国側の全権大使・李鴻章りこうしょうが下関で講和条約を結び、日清戦争は終了した。この条約で日本は2億テールもの賠償金を受け取り、台湾、澎湖諸島、遼東半島を領地として得た。
国民はこの勝利に酔いしれた。と、この「国民」という言葉は、わりと新しい。30年ほど前まで、日本人に「国家」という概念は薄かった。武士にとっては自分が所属する「藩」が「国家」に相当し、農民にとっては自分の「村」が「国家」のようなものであり、「日本」という一国の国民、という意識は薄かったと思われる。維新後、政府は民衆の教育に力を入れ、「国民」をつくっていった。近代国家を支える「国民」がいなければ、明治政府もしょせんは絵に描いた餅である。その生まれたての近代国家が初めて「国家」として外国と戦ったのが日清戦争であった。この頃の戦争は、第一次大戦や太平洋戦争のような総力戦とは異なり、国家の威信をかけた軍隊同士がぶつかりあう、源平・戦国の合戦絵巻のように武者達が武勇を振るうといった、一種のロマンチズムを感じさせるような一面を持っていた。戦争が国家と国民に並々ならぬ負担を強い、桁違いの死傷者を出すようになりはじめたのは後の日露戦争、第一次大戦以後である。
日清戦争の勝利によって、国民の意識も日本の威信もおおいに高まった。清国は既に老朽化した大国であったが、それでも大国である。また、日本は古くは遣隋使や遣唐使といった「勉強使節」団を派遣し、中国から国づくりを学んできた。その中国に勝ったことにより、日本人の「日本国民」という意識が強烈に刺激された。そして、のちにこの刺激をさらに強くする事件が起こることになる。
一方、好古は5月31日に宇品港に凱旋した。好古は帰港の少し前に騎兵中佐に昇進した。陸に上がり、その日の宿営地の広島宿舎に入ると、好古はこれまでにたまった給料全額を副官の稲垣中尉に手渡し、部下達の凱旋祝いに使えと言って、あげてしまった。部下に凱旋祝いをおごってやるのは好古らしいが、何ヶ月分もの給料全額はあまりに多すぎる。しかし彼は、金銭にたいしてはだいたいこのような感覚で、留守宅の生活費にはほとんど気にしない癖があった。非常に優秀な軍人であった好古であったが、家庭内においては持って帰ってくる給料が少ない、困った父親だったのかもしれない。


<好古挿話 その三>
指揮刀

指揮刀とは竹光と同じで、刃がないので切れない。将校が装飾・指揮用のために平時に装備していたが、戦時は軍刀・サーベルを装備した。当時のサーベルは、こしらえはサーベル式だったが中身は日本刀だった。好古は日清・日露の戦で、サーベルではなく、指揮刀を装備していたという。同僚や部下は心配したが、好古は「これでいい」といって少しも気にしなかった。
なぜ、あえて指揮刀を持っていったのか。戦場にていざという時、指揮刀が武器では危険きわまりない。好古本人は理由を言っていないが、いくつか考えられる理由はある。
まず、指揮官の役割は軍を率いて敵を破ることにあり、自らが抜刀して武を奮うことではない。だから、兵士の武器を持つ必要はない、と考えていたかもしれない。
もう一つ。好古は同時代の軍人とはだいぶ毛色が異なる男であった。好古は、自分の子供が軍人になることを嫌い、敬愛する福沢諭吉の慶応大学に入れ、一般市民にした。元々好古は軍人志望ではなく、最初は教員としてはたらき、後に勉学と生活のため、官費で学べる士官学校に入ったのである。軍人となり、騎兵を養成する立場となったため、彼は一生懸命に研究と鍛錬を重ね「軍人」となったが、それはおそらく彼の本来の姿ではなかったのであろう。自身が人を斬ることをひそかに避けていたのではないだろうか。ただし、いずれも予測である。


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