<帝国主義の嵐>

BGM 「街燈」 composed by TAM

明治28年 三国干渉

歴史分野に限った話ではないが、物事には「背景」がある。そこに至るまでの過程や、それに関わった人々の思惑・利害関係などが「背景」にあたる。当時の世界情勢は帝国主義の時代といえる。強大な軍事力を持つ欧米列強が、軍事力の面で劣るアフリカ・アジアを植民地化し、列強同士で切り取り合戦を行った。当時の外交はその切り取り合戦のための外交であった。この帝国主義の時代を言い換えるなら、「世界規模の戦国時代」といったところだろうか。強き者が正しい者であり、力こそが正義なのである。
日清戦争の日本の勝利は、極東進出を計る列強に衝撃を与えた。30年ほど前までは未開の国だった日本が、既に列強の食い物にされているとはいえ、アジアの大国・清を破ったのである。「眠れる獅子」という表現がある。当時の清国を表した言葉である。欧米列強は清の植民地化を進めてきたが、その裏ではひそかに恐れも抱いていた。今は眠っていても、ひとたび目を覚ませば痛い目に合うだろう。そう考えられていた。しかし、日清戦争でその弱体ぶりを露呈した清に対する認識は一変した。
清は既に亡国である。警戒しなければならないのは、新興の日本ではないか。
特に、ロシアが焦りを覚えた。前々から狙っていた遼東半島を日本に取られたのである。
「遼東半島はシナ(中国)に返せ」
ロシアはその強大な軍事力を背景に、日本を脅迫した。この魂胆は見え見えであったが、この要求に正当性を持たせるため、フランス・ドイツの二カ国を連名にし、「極東の平和のため」という理由で遼東半島の返還を要求した。「平和」という言葉を使い、正当性を持たせてはいるが、明らかにうわべだけの表現である。実際、ドイツは威海衛の南にある膠州湾こうしゅうわんに軍隊を送り込んで占領し、ロシアは明治30年12月18日に旅順・大連に軍隊を送り込んで占領。さらに、明治31年3月15日には清の高官・李鴻章を賄賂で買収して、正式に遼東半島全域をロシアに譲渡させてしまった。当時の日本には、戦争直後ということもあり、ロシアと戦える力はなかった。さらに、ドイツやフランスまでもが加わっては到底勝ち目はなかった。日本は悔しさをこらえて要求を飲んだ。それと同時に、迫り来るロシアの恐怖を感じたのである。
この間、好古は騎兵の育成に努めていた。陸軍乗馬学校長となり、騎兵将校の育成にあたった。また、日清戦争の賠償金で軍備も拡大された。師団が増設されて全部で8師団となった。騎兵大隊は2個中隊編成から3個中隊編成となり、「大隊」の呼称が廃されて「連隊」となった。また、騎兵の銃は歩兵用の村田銃から、扱いやすい騎兵銃に切り替わった。
また、好古は騎兵に対する軍首脳部の考え方を改めさせるために、明治30年、「本邦騎兵用法論」という軍事論文を著した。この論文は歴史的な名文とされているらしい。また、日清戦争の体験を基に騎兵操典を改正した。従来の洋書直訳の操典ではない、史上初の日本独自の操典であった。

明治33年(1900年) 北清事変

日清戦争の後、ドイツ・ロシアの強引な土地租借など、清に対する列強の侵食には拍車がかかってきた。列強は争って土地の利権を奪い、鉄道を敷き、大量の商品を流入させた。される方の農民はたまったものではない。鉄道のために土地を奪われ、商品の流入は農民の副業をうばった。各地であぶれた農民が暴動を起こし、それはやがて「義和団ぎわだん」という団体に吸収されていった。義和団は「扶清滅洋ふしんめつよう(清を助けて、外国を追い出す)」というスローガンを掲げた攘夷集団であった。彼らは指揮官以外は刃物を使用せず、拳法で体を鍛えて戦った。彼らの信念によれば、彼らの方法で肉体を鍛え上げれば刃物や弾丸にも屈しない強力な体ができる、という。この義和団があちこちで外国人を襲い、鉄道・外国商社を破壊して回った。特に宣教師が狙われた。宣教師たちは治外法権を持って進出し、大農場を清国人を酷使して経営しはじめるものまでいた。当然のように納税を免れ、役人との摩擦が絶えなかった。自然、義和団の矛先は宣教師に向けられた。それだけでなく、宣教師になびいてキリスト教徒となった清国人も多数殺された。地方の政府機関も、義和団を止めようとはせず、逆に応援するようになった。
義和団の勢いは増し、およそ20万人もの義和団が官軍を破って北京に入城、掠奪と放火の限りを尽くし、清国政府も公然と義和団と手を握った。明治33年6月11日には日本公使館の書記生・杉山彬が殺され、20日にはドイツ公使・ケトラーが殺された。さらに21日、清国政府は列強に対する宣戦布告の上諭を政府軍と義和団にくだした。孤立してしまった北京在住の外国人は公使館に籠城。本国の援軍を待つことになる。しかし、欧米列強は本国が遠いため、すぐに大軍を送ることはできない。そこで、イギリスが「日本が大軍を送ること」を提案した。一番現場に近い日本が2万の兵力を出す、そのかわりにイギリスは100万ポンドを提供するというのである。ドイツ・ロシアは、事件後に日本の立場が強くなるのを嫌って難色を示したが、結局は日本が大軍を送ることになる。広島の第五師団が動員され、既に騎兵大佐に昇進していた好古も兵站監として加わった。
孤立した北京で諸外国の防戦の指揮をとったのは、日本陸軍の柴五郎しばごろう中佐である。彼が、駐留していた諸国の武官の中で最先任者であり、またフランス語も使えたので指揮官となった。この防衛戦で、諸外国は民間人を含めて約85%もの死傷者を出したが、柴五郎中佐の指揮と勇戦で何とかもちこたえた。ゴロー・シバの名前は世界中に報道されたらしい。
清・義和団軍との交戦は、主力となった日本軍が奮戦した。死傷者も日本軍が一番多かったが、その分列強からは一目置かれる存在となった。イギリスのシーモア提督は、日本の福島安正少将に「英国兵は貴官の指揮下で戦ったことを光栄と感じた」という内容の手紙を送った。
8月14日。列強連合軍は、ついに北京を攻略した。好古はもちろん、日本人はここで列強に侵略されることの悲惨さを知ることになった。日本を除く列強連合軍は掠奪・強姦・殺人の限りを尽くした。イギリス・フランスなどはアロー戦争で手馴れているのか、兵士たちは民家を片っ端から襲撃し、宮殿にも押し込んで金銀財宝をかっさらっていったという。ロシア軍の司令官・リネウィッチも自ら掠奪行為に加わった。列強連合軍の総司令官となったドイツのワルテルゼー元帥は皇帝・ウィルヘルム2世の命令で北京南方120kmの保定府などで、演習代わりに都市に砲弾を撃ち込み、民家を焼き払い、死をふりまいてドイツ軍の恐ろしさを知らしめた。これが当時の世界情勢の現実であった。白人らの優越意識の絶頂の時期であった。黄色人種の日本軍は、取り残されたように一兵たりとも掠奪に参加していなかった。不平等条約を結ばされていた日本は、条約改正のために文明国であることを世界に知らしめようとしており、国際法の遵守、軍規の徹底など、列強よりもずっと文明国であった。また、当時の上官たちの多くが幕末の動乱を生きてきた「武士」階級出身であった。兵士たちが暴徒化しないように、指揮官が厳しくとりしまっていたのである。北京占領後、軍政長官の柴五郎中佐は、軍規を徹底させた。また、兵站監だった好古は「本国に持ち帰りを許可する物は、戦闘により入手した敵の武器、銃、刀、槍、弓のみである。これは子孫に武勇を伝える戦争の記念品であるからで、他の物は禁止する」と、古武士という異名が似合う命令を出した。好古の役職は輸送について全権を握っている。将軍のような高級軍人が頼んでも、きっぱり断ったという。白人が好き勝手しているのだから、我らだけが行儀よくしている必要はない、という者もいたが、抑えられた。そのため、占領地の中では日本の管轄地域が最も治安がよく、自然と人も集まってきて復興が早かったらしい。
ちなみにロシアは、この義和団事件に紛れて大軍を動員し、全満州を占領した。ロシアの極東進出はやがて朝鮮に及ぶことになる。
義和団事件が片付いて連合軍が解散したのちも、列強の軍隊が北京・天津に駐留することとなった。目的は居留民の安全と権益の保護のためである。外国の軍隊が堂々と首都に居座るようでは、清の独立国としての面目は完全に潰されたといってもよい。列強駐屯軍の司令部は北京と天津に置かれ、日本の天津司令部は「清国駐屯軍守備隊司令部」と呼ばれていた。
明治34年 イギリス女王 ヴィクトリア死去
女王の追悼会が天津で行われ、日本からは好古が出席した。
明治34年7月 清国駐屯軍守備隊司令部司令官に就任

写真は少将のときのもの
(愛媛県立歴史民俗資料館蔵)

好古は「軍人に政治のことは複雑すぎてわからないし、わかったら軍人は弱くなる。兵にして政を談ずる者は醜怪だ」と言っていたぐらい、軍人に徹した男だった。彼の軍人人生も大学校卒業者としては例外的なもので、参謀本部や軍政面には関わらず、ほとんどが隊付勤務や騎兵教育に向けられていた。唯一、彼の職務に政治的な要素が含まれていたのは、この清国駐屯軍司令官の時代であった。この年の10月25日には、昇格して「清国駐屯軍」の司令官も兼ねた。好古の評判は良かった。
当時の天津の日本領事は伊集院彦吉は「秋山見物」と称してほぼ毎日司令部を訪れて雑談していった。清国の民衆も「あの将軍こそ、東方第一の大人たいじん」と言って尊敬していたという。また、列強の駐留武官からも人気だった。こんな話がある。
好古がある日の午後、副官の石浦大尉を連れて街を歩いていると、フランス軍司令部副官のコンダミー大尉に偶然出会った。コンダミー大尉は、好古に報告することがあったので、路上ながらそれを話すと、フランス留学の長かった好古は「ふむ、ふむ」とうなずき、最後には大きな声で笑って、それも日本語で「それはよかった。おれも安心した。」と、大尉の肩をたたいてそのまま行ってしまった。大尉は日本語がわからなかったため呆然と立ちつくしてしまったが、石浦大尉が通訳してなんとか意味は通じた。また、列強司令官の親睦会でも、酒豪の好古は浴びるほどに酒を飲み、フランス語で話しかけられると、「ふむふむ」とうなずき、返事は時々日本語であった。わざとそうしているのではなく、自然にそうなってしまうようである。これは、自分達に親しみを持っていることの顕れ、として取られたようだった。
こんな話もある。列強の軍隊が駐留しているため、揉め事も多く、喧嘩もしばしば起きた。好古のところに、あるドイツ人将校が喧嘩の苦情を言いに来たところ、好古は他の者たちとスキヤキを食べていた。好古はこのドイツ人将校を仲間に加えて一緒に酒を飲み、おおいに談笑し、うやむやにしてしまったらしい。「秋山大佐は独特の外交の才がある」と、日本人に評された。
独特の外交の才がある好古は、独特の方法で重大機密を獲得することに成功した。
袁世凱えんせいがいという男がいる。この頃、直隷(山東省)総督を務めていた。下関講和会議で清の全権大使となった李鴻章は、崩壊寸前の清をなんとか支えた柱石であったが、義和団事件が片付いたあとに病没した。彼の死後、清王朝で実力者となったのが袁世凱である。彼は野心家であった。李鴻章は唐の時代からの伝統官吏登用制度・科挙に合格した高官だったが、袁世凱は科挙の落第者だった。中国には「捐納えんのう」という、金で官職を買う制度が古くからあり、袁世凱はその方法で官吏になった。のちに武官に転じた。義和団事件のときも、清軍の一員として列強と戦うことはせず、山東省に居座り続け、事件終息後、無傷の軍隊を背景に持つ実力者となったのである。のちに、清を見限って孫文らの革命に軍事力を提供するかわりに、中華民国初代総統の地位に昇った。さらに、皇帝となろうとしたが、諸外国からの反感を買って失意のうちに病死している。この袁世凱が、家族ぐるみで好古を信用し、好古に機密事項を伝えたのである。機密事項というのは、清が、ロシアが軍事占領している満州全土を正式に割譲するかわりに、ロシアは清が北清事変で背負った賠償金をロシアが肩代わりする、という内容のものであった、などと言われている。それをかぎつけた日本の諜報部員が好古に知らせ、好古が部下を袁世凱にやって、実情を聞き出したというのである。好古はすぐに本国に連絡し、日本政府はイギリスと共に抗議して、密約を白紙にしてしまった。この後、一度本国に打ち合わせのために好古は一時帰還した。再び天津に帰るとき、寺内陸相が見送りに現れ、好古に耳打ちしたという。好古は「秋山はもう泥棒はできませんよ」と大笑いしたという。おそらく、寺内陸相はもう一度ぐらい、機密情報を入手してくれ、というようなことを耳打ちしたのだろう。
さて、この袁世凱は国家の重大機密を好古に話してしまうほど、好古を信頼していた。というのは、清が復興のために天津の返還を列強に希望していたのだが、列強は相手にしなかった。ところが、好古はその話を袁世凱から聞いてその理に納得し、いろいろ周旋して明治35年8月15日に天津が返還される協定が結ばれたのである。これに対して袁世凱はもちろん、その家族までもが好古を信頼した。袁世凱は日清親善のため、自分の息子を日本見学に行かせることにした。袁世凱夫人は遠い異国へ息子を送ることには気がのらなかったが、好古が勧めたら安心して行かせたという。こうして明治36年、好古の帰国と共に袁世凱の長男・袁克定が日本に来た。ここで、困った問題が発生した。好古の自宅は、小さな借家なのである。清の実力者の息子を迎えるにはあまりに貧相であった。そこで、旧藩主久松家の屋敷を親戚の邸宅と称して迎えたらしい。
好古の帰国が決まると、居留日本人は別れを惜しみ、伊集院総領事が盛大な送別会を開いた。送別の辞で、伊集院領事は「餞別の募金は700ドルになり、高級金時計を贈りたかったが、天津にはないので、後日上海で用意する、という旨を伝えた。すると好古は謝辞を述べた後

「せっかくの金時計ですが、私は元来野人であるうえに、新任地は狐や狸が住む千葉県の習志野です。だから、高価な品物はせっかく頂戴してもどうかと思われます。御厚意は現金で頂きたく存じます。」

古武士の好古が物より現金を望むとは意外な台詞であったが、好古の希望なので現金700ドルを贈呈することになった。すると好古は笑って

「勝手なことを申したにもかかわらず、早速賛成してくださったのは感謝の至りであります。何ら誇るべき功績を残さないでこの贈り物を頂くことは慙愧にたえません。ついては、この現金はこのまま居留民の小学校に寄付して教育資金にしていただきたいと存じます」

と述べたという。会場は拍手で溢れ、一同は好古にいっそうの敬意を示したのである。
帰国して、好古の荷物から山のように餞別の目録が出てくると、多美夫人は「荷物はあとからまいるのでございますか」と尋ねた。ところが好古は「いや、みんな人にやってきた。折角だから、目録だけもらってきた。」とあっさり答えたらしい。多美夫人がこういう夫をどう思っていたのかはわからないが、この辺がいかにも好古らしい。特に小学校に寄付するという発想は、当時の普通の軍人ではありえないだろう。これは、教員の道を歩いたことがある、好古ならではの気持ちだったと思われる。
明治36年(1903年) 好古ロシア訪問
この年の初夏、好古は清から帰国し、千葉県習志野にある騎兵第一旅団長となった。階級は少将である。それから間もなく、ロシア陸軍省よりニコリスクで行われるロシア陸軍の大演習に招かれた。9月4日、好古は歩兵少佐・大庭二郎と共にウラジオストックへ向けて横浜を出港。9月11日した。好古の接待係はミルスキー大尉。彼もフランスで砲兵の勉強をしていたことがあり、好古と話すうちに共通の知人の話も出て、すっかり好古に好意的になった。豪華な馬車でウラジオストックの市内見学の時、好古の天衣無縫な行動が始まった。見せられるのはなんでもない場所ばかり。好古が見たい(ロシアはあまり見せたくない)軍事施設の前は素通りするので、好古は勝手に馬車を止めさせて「挨拶じゃ」といって軍司令部などの玄関に名刺を置き、「この館の上へ上がれば要塞も軍港も見渡せるな」と言ってどんどん階段を登ってしまうという行動に出た。ミルスキーら接待委員は制止するわけにもいかず、好古に振り回された。この調子で沿海州軍務知事、ウラジオ艦隊司令官も訪ね、さらに軍港が見渡せる場所で馬車を止めさせて、岬の砲台の数やら射程距離やら、およそ他国の軍人には教えられない内容のことも聞いた。ところが、好古の顔にはいつものつややかな顔に微笑があって、ミルスキーら接待委員はついつりこまれて本当のことも少ししゃべってしまったらしい。ミルスキーらはもちろん、大庭少佐もかなりひやひやものの市内見学であった。
翌朝、ニコリスクへ向かい、夕方に到着。歓迎会が開かれた。好古は国境を越えた騎兵仲間と知り合い、楽しい時を過ごした。 しかし、肝心のロシア軍演習は大雨で鉄道が使用不可になったため、予定されていた軍の十分の一程度しか集まらず、小規模なもので終わってしまった。が、好古には十分参考になった。ロシア騎兵は日本騎兵よりもずっと優れていた。騎兵連隊は6個中隊からなり、一個中隊は120騎ほど。馬格も立派。対する日本騎兵は、明治20年にアルゼリ種の馬90頭と翌年に仕入れた170頭を種に増やしてきたが、あまり増えず、日本在来種が中心になっていた。また、馬を繁殖させるための種馬所と種馬牧場も明治29年にできたぐらいで、まだまだ発展途上の段階であった。「賞賛の価値あり。わが騎兵より優る所ありとみとむ」と日記に書いてあるようだ。好古は、このロシア訪問でロシア陸軍を実に客観的に調査・評価している。それによると、騎兵・砲兵は馬の点で日本より優り、歩兵は日本とほぼ同等、将校は勇壮で、特に騎兵将校は決意、敵に闖入する気概あり、と褒めている。また、高級将官は精鋭揃いであるが、日本もがんばれば追い越すことは難しくはない、と書いている。
演習終了後、好古はなんと満州を含むロシアの軍事施設を見学したいと接待委員に申し出た。軍備増強が盛んな満州は警戒が厳重で、日本の間諜がなかなか入れなかったが、好古は入った。接待委員には「ハバロフスク総督代理のリネウィッチ大将とは、天津在任中に親しくしてもらっており、ここまで来てリネウィッチ大将に挨拶していかないというのは日本の武士道が許せない」と、わざとフランスの田舎なまりを使ってのんきな顔で言って委員を困らせた。当然、ハバロフスク周辺は日本人に見せたくなかったので理由をつけて断る。それでも好古はあきらめずに申し出るので、ロシア側は「皇帝の勅許がいる」と答えてあきらめさせようとしたが、好古は「それでは勅許を得てくれ」と頼んでしまった。仕方なく、首都・ペテルブルクに電報を送ったところ、一日後に「許可する」という返電が返ってきた。この返電が来たのはハバロフスク行きの列車の発車二時間前で、夜の12時であったが、好古は出発した。
満州の核心部まで踏み込んだ強行偵察であったが、好古の人柄がロシア人は気に入ったらしく、あちこちで歓待された。ハバロフスクまでの沿線に駐留している騎兵連隊は朝だろうが夜だろうが、好古が来たら歓迎し、ハバロフスクではリネウィッチ大将も歓迎した。好古は幼年学校、女学校なども見学し、さらに旅順も見学した。さすがに旅順は嫌がられたが、「極東総督のアレクセーエフにぜひとも会いたい」と強気に頼み、リネウィッチと酒を飲みながら希望を述べて、ついに承服させた。翌年の開戦前に旅順を見たのは好古だけで、彼が見た情報は日露戦争中の参謀本部の貴重な資料となった。
10月3日
好古は日本に帰国。日露両国の間に、朝鮮と満州をめぐって話し合いが持たれたが、日本が提案する「ロシアは満州を、日本は朝鮮をもらう」という案に対してロシアは「満州だけでなく朝鮮北部もロシアがもらう」ことを主張。そのうち、日本の提案に対する返答も遅れだした。実力でものをいうつもりなのか、戦準備を始めたのである。開戦は避けられない状況となった。


<好古挿話 その四>
チフス

好古がフランスに留学していた頃の話。私費留学が官費留学に切り替わったころ、好古は熱病に倒れていた。西洋医学では発疹チフスと呼ばれている病気で、死に至ることもある恐ろしい病気であった。これを聞いた外務省の加藤恒忠が驚いて好古を訪ねると、好古は熱ではれあがった顔で寝ていた。加藤は医者に見せることを勧めたが、好古はまったく聞かない。なんと、好古は内科全書を読んでチフスについて調べ、自分で適当な手当てをしているらしい。病状は重く、高熱で目は充血し、意識がおぼろげになってうわごとを言うこともあった。しかし、こんな状態であるにもかかわらず、好古はご飯の時間になると士官学校の食堂まで歩いて行ったのである。結局、医者には行かずに自力で治してしまった。
なぜ医者に見せなかったのかというと、彼はのちに「医者にかかるのは国辱だからな」と言った。現代の感覚ではよくわからない理由だが、当時の日本人留学生の中では共通した意識らしい。留学日本人が発疹チフスにかかってフランス人を騒がせる、というのは恥ずかしいことだというのである。
それにしても、死に至るかもしれない病気を自力で治すとは、なんという豪傑ぶりだろうか。


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