BGM:TROOPS MARCH BRAVELY
composed by リク

<開かれた戦端>

明治37年(1904年) 日露戦争開戦
明治36年10月頃から、日露協商策がまとまらないと見越したロシアは戦争準備を始めていた。対する日本も、ロシアという大国相手の戦争準備を進めることになる。まず、緒戦は海軍が行うことが予想された。当然のことだが、満州方面に陸軍を送るためには海上輸送する必要がある。輸送船団を無事に送り届けるためには、日本が制海権を取らねばならない。この方面のロシア海軍・旅順艦隊を撃滅しなければならない。日露戦争は日本の連合艦隊とロシアの旅順艦隊の戦いから始まった。ロシア軍は日本よりも陸軍力の面で圧倒していたが、海軍力でもそれは同様であった。大雑把に見れば、日本海軍の総力を結集した連合艦隊が、ロシアの旅順艦隊とほぼ互角である。しかし、ロシアの海軍の主力はバルティック艦隊であった。しかし、そのバルティック艦隊は戦地からはるかに遠い大西洋に停泊していたため、極東まで来るのにはかなりの時間がかかる。しかし、やってくることは間違いないだろう。連合艦隊は、旅順艦隊を倒した後はバルティック艦隊と戦わねばならない運命であった。最小限の損害で(できれば一隻たりとも失わずに)旅順艦隊を壊滅させる、という難事を連合艦隊司令官の東郷平八郎と好古の弟・秋山真之ら参謀が抱えたのである。2月4日、ロシアとの国交断交が決定され、2月5日には佐世保に停泊している連合艦隊に出撃命令が出た。連合艦隊は、主力を旅順港に送る一方で、陸軍の上陸予定地点である仁川を確保するために別働隊を派遣した。仁川港外の戦いでは勝つべくして勝ったが、旅順艦隊との戦いは思うほどの戦果があがらず、旅順艦隊は軍港内に逃げ込んでしまった。一応は制海権をとることができたが、旅順艦隊は戦力を温存して潜んでいる。バルティック艦隊到着前に旅順艦隊を叩くためには、陸から旅順要塞を攻略することが必要となった。

日露戦争 陸軍編制
満州軍総司令官 大山巌元帥
総参謀長 児玉源太郎こだまげんたろう大将
第一軍司令官 黒木為くろきためもと大将
第二軍司令官 奥保鞏おくやすかた大将
第三軍司令官 乃木希典のぎまれすけ大将
第四軍司令官 野津道貫のづみちつら大将

陸軍はまず黒木為大将率いる第一軍が(軍の番号は上陸順)満州と朝鮮の境界である鴨緑江おうりょっこうでロシア軍の守備隊(司令官はザスリッチ将軍)と交戦することとなった。この鴨緑江の戦いは陸の緒戦であり、世界中がこの戦いに注目していた。日本にとっては、この戦いで圧勝しなければならなかった。日本はロシアと互角に戦うために、国家予算の数倍の借金をして軍備強化をする必要があったからである。借金といっても、外国はそう簡単には貸してくれない。日本が負ければ、貸した金は返ってこない可能性が高い。戦前の評判は、当然ロシアが勝つと予測されていた。その予測を覆し、お金を集めるためにはこの緒戦で大勝し、日本が勝つという見込みを作り出す必要があったのである。総参謀長の児玉源太郎もそれを十分理解しており、第一軍に多量の火器を与えて出陣させた。4月30日の鴨緑江の戦いは、大河を渡河して対岸のロシア軍要塞を突破するという難題であったが、第一軍は与えられた火器でロシア軍を圧倒。わずか一日で渡河を成功させ、ロシア軍の拠点である九連城まで陥落させた。大勝であった。
好古の騎兵第一旅団が所属したのは第二軍で、司令官の奥保鞏は豊前小倉藩出身だった。小倉藩は佐幕藩である。しかし、奥は無類の戦上手で、しかも控えめな性格であった。西南戦争などで功を立てているが、奥はこれを隠そうとするほどであったという。この第二軍所属となったのは第一師団(東京)、第三師団(名古屋)、第四師団(大阪)の3つの師団と、野戦砲兵第一旅団、そして好古率いる騎兵第一旅団の2つの旅団であった。騎兵第一旅団に動員令が下されたのは4月9日、習志野を出発したのは同月29、30日で、5月18日、日清戦争のときと同様に広島の宇品港を出港した。好古は、日清戦争の時と同じように、軍刀ではなく指揮刀を吊って出陣した。
金州・南山の戦い
5月17日。好古率いる騎兵第一旅団は張家屯という漁村に上陸。第二軍の中では最後の上陸部隊だった。
5月26日。第二軍の最初の任務は金州、南山の制圧であった。ここは遼東半島の先端部分のつけ根にあたる。この区域を制圧するこで、ロシア艦隊が逃げ込んだ旅順要塞を孤立させるのが狙いである。また、この任務は日清戦争のときの第二軍とほぼ同様のものだった。第二軍は攻撃を開始したが、予想外の苦戦に陥った。日清戦争の時は半日で落としたが金州であったが、今回は熾烈な戦闘となり、戦闘終了後の第二軍の死傷者は約3000人にもなってしまった。第二軍は緒戦でその一割の兵力を失ってしまったのである。日本本国では、報告が来たとき、ゼロが一つ間違っているのではないか、とすぐに信じることができなかったという。この予想外の損害の原因の一つは、ロシアのコンドラチェンコ少将が二ヶ月ほどの突貫工事で築き上げた野戦要塞にある。第二軍は、宣戦布告前には存在しなかった要塞を見て驚き、本国に砲の追加を要請したが、本国は拒絶した。送ろうにも、送る予備の砲がなかった。かといって、砲が来るまで待っているわけにはいかなかった。北方ではリネウィッチ大将率いるシベリア第一軍が続々と終結していた。リネウィッチ軍団が南下する前に金州を制圧し、第一軍と合流してこれを迎え撃たねばならないのである。第二軍は苦戦覚悟で攻撃を開始しなければならなかった。
もう一つの原因は、機関銃である。当時は機関砲という名前であったが、日本軍はほとんど機関砲を持っていなかった。持っていたのは好古の騎兵第一旅団である。歩兵が山麓に向かって突進していくと、まず砲の洗礼を浴びる。鉄条網を切って、やっとの思いで敵陣近くまで来ると、機関銃の掃射を受けてあっという間に壊滅してしまった。
あまりの損害に第二軍司令部では退却案も出たが、第四師団長・小川又次中将が、比較的手薄な左翼を集中攻撃して突破口を開く、という作戦を提案。この作戦で日が沈む頃に南山の占領になんとか成功した。この一日の戦闘で使用した砲弾の量は、日清戦争で使用した全ての量を超えてしまったという。
孤立した旅順要塞の攻略は後に上陸する第三軍が担当し、第二軍は南下してくるロシア軍に備えて北上することとなった。
曲家店・竜王廟の戦い
5月30日。好古の騎兵第一旅団は北方の敵情偵察のために、主力に先立って北進を開始した。しかし、この動きはロシア軍の騎兵偵察によって既に総司令官のクロパトキンに報告されていた。クロパトキンシタケリベルグ中将に、騎兵一個旅団と歩兵二個大隊に砲を四門をつけて先発させた。第二軍の先鋒として進む好古も歩兵二個中隊を借りていたが、南下するロシア軍に比べると兵数は劣っている。おまけに、好古には砲がない。ヨーロッパの騎兵隊はみな「騎砲」という砲を持っていた。火力を重視する好古は、上層部に騎砲の装備を何度も具申していたが、ついに聞き入れられなかった。砲の有無が、この戦いの優劣をはっきりさせた。
曲家店で、好古らが最初に戦った相手はゼルツヒン騎兵中佐率いる一個大隊ほどの部隊で、騎兵五、六個中隊と歩兵二個中隊、騎砲一個中隊からなっており、好古の方がずっと大軍を抱えていた。にもかかわらず、苦戦した。その原因は砲を持っていないことに加えて、地形的に不利だったことがあるようだ。この近辺は丘陵地帯の隘路になっており、要所要所にはロシア軍が砲を設置していた。日本軍は思うように軍を展開できず、数で優っている点を活かすことができなかったらしい。
(退却すべき・・)。将校達は当然そう思った。しかし、好古の頭には「退却」はなかった。好古はこの軍の大将であるにもかかわらず、指揮所をどんどん前進させてついに最前線付近の竜王廟まで来た。そして、さらに進んで、ロシア軍の銃弾が集中している機関砲の側までやってきたのである。好古の側で士卒はばたばたと倒れ、さらに悪いことに弾丸不足に陥った。それでも、好古は退却命令を出そうとしなかった。かつての日清戦争のように、彼は退却することを恐れたのだろう。それは、この戦いが日露騎兵同士の最初の戦いだったからである。ここで退却しては、日本騎兵の士気は下がり、ロシア騎兵はさらに自信をつけてしまうだろう。悪ければ、「負け癖」がついてしまうかもしれない。不利であっても、ここで退却すれば、今後勝ちを得ることはできそうになかった。劣勢の戦況にたまりかねたある将校が、好古のもとにやってきて退却を薦めた。すると好古は「うむ」と言っただけで返事をせず、従卒に目配せして杯にブランデーをつがせ、そばの民家の土塀の上に横になって、その将校に背を向けてしまった。
少将閣下が最前線の機関砲陣地でふて寝をしている。
と、好古のこの滑稽な姿は兵士たちの間に広まった。すぐそばに砲弾が落ちてくる戦況である。一歩間違えば、好古の体は微塵にくだけてしまうかもしれない。並の将には真似できないことだろう。
(もう戦闘は一時間半ほどになる。敵も疲れてそのうち引き返す)
好古はふて寝してそれを待った。午後三時半頃、好古が思ったとおりにロシア軍は退却を始めた。日本軍は、退却せずに危機を脱することができた。
この夜、竜王廟付近で宿営した好古は、民家で
「今日退却を意見具申されたときほど困ったことはなかった。なるほど、戦術的にはそうさ。しかし、戦略的には退くわけにはいかんので、聞こえぬふりをして寝てやった。」
と、副官の中屋に言ったという。
6月3日朝。第五師団の隷下にある砲兵二個中隊をつけてもらうことになった。前の戦闘で砲を持たない軍の弱さを思い知らされた好古は、上機嫌で砲兵を迎えた。そして、砲兵は要所要所に隠しておき、いざというときに一斉に火蓋を切ってもらう、という手筈をととのえた。ロシア軍は、好古に砲がないことを知っている。増援が来たら一挙に押し寄せてくるだろう。そこを、隠しておいた砲で叩く、という戦法である。この日の午前11時40分頃、敵影を見た。さらに午後3時頃には、遠くの得利寺まで出していた斥候が帰ってきて、得利寺駅に増援が到着し、ロシア軍が南下を始める模様、という報告をした。午後5時頃には、ロシア軍が迫ってきた。ロシア軍の砲は4門あったが、好古は手ごろな距離までひきつけてから、伏せておいた砲兵に一斉射撃を命じた。この射撃でロシア軍の砲は4門とも吹っ飛び、部隊は混乱状態に陥った。つづけて歩兵、馬を下りた騎兵を前進させた。いきなり砲を失ったロシア軍は果敢にも迎撃したが、ほとんどが粉砕されて敗走した。好古は、なんとか勝利を収めることができたのである。
ロシア騎兵には、馬上から戦友の死体をひきあげる芸がある。この戦場に倒れていたのは日本兵ばかりで、ロシア軍の遺棄死体はわずか一つであった。

騎兵第一旅団司令部の集合写真
前列中央が好古
(愛媛県立歴史民俗資料館蔵)

遼陽りょうよう会戦
好古が所属する第二軍は北進を続けた。次の予定決戦場は遼陽である。遼陽は南満州では奉天に次ぐぐらいの都会であり、ロシア軍総司令官のクロパトキンは、この遼陽に主力を結集して日本軍と決戦を行う構えでいた。日本軍は、遼陽を抜くために黒木為の第一軍、奥保鞏の第二軍、野津道貫の第四軍の、総勢14万の兵力を結集させたが、ロシア軍は23万もの兵を抱えていた。旅順攻略に向かった乃木希典率いる第三軍が抜けている分、戦力の減少は否めない。全軍を動員したとしてもロシア軍より兵力で劣るにも関わらず、日本軍は約75%の戦力で戦わねばならなかったのである。おまけに、太平洋戦争終結まで日本陸軍が抱え続けた問題、「補給」に支障をきたしはじめた。陸軍大学校でメッケルが教えたにも関わらず、陸軍の首脳部は補給の観念がたいへん薄いようである。昭和期は、補給不足は「大和魂」で補わせた。この時も、陸軍全体が砲弾不足に陥り、ひどい部隊は食料不足にまで陥っていた。ちなみに、同じ日本軍でも海軍は砲弾など十分に準備しており、砲弾不足など経験していない。せめて第三軍が旅順を攻略し、全軍でロシア軍に当たることができれば苦戦の程度は和らいだかもしれないが、第三軍は旅順に釘付けにされてしまっていた。連合艦隊は8月10日の黄海海戦で旅順艦隊と一度交戦したが、その多くは再び旅順港に逃走したため、制海権を完全にとることはできなかったのである。日露戦争最初の大会戦は、こんな状況下で行われたのである。
8月3日。好古は「遠ク北方ニ前進シ、鞍山站あんざんたん方向ノ敵情ヲ捜索スベシ」との命を受け、この日から20日間にわって敵情偵察にあたっていた。騎兵斥候を出したのはもちろんだが、部下の将校を中国人に変装させて、遼陽市街に潜入させるという手段もとった。その結果、ロシア軍の防衛主陣地は「首山堡しゅざんほ」である、と報告した。しかしどういうわけか、上の司令部はその報告を無視したのである。総司令部は首山堡はあくまで前哨基地としてとらえていた。これでは、好古が仕入れた情報も役に立たない。
8月25日夜半。第二軍が行動を開始した。
遼陽攻撃の部署は、右翼が第一軍、中央が第四軍、左翼が第二軍となり、秋山支隊は第二軍の最左翼を進むことになった。正面の敵はミシチェンコ少将率いるコサック騎兵団である。第二軍は好古の軍をコサック騎兵団襲撃の防御に使おうとした。防御は騎兵の仕事ではない。しかし、好古は自分の隷下に歩兵・砲兵・工兵の三兵科を加えた複合混成部隊を結成して、その任を全うしようとした。そのため、好古の隊は小規模ながらも全ての兵科を揃えた「軍」を形成しているので、「秋山支隊」と呼ばれている。
8月27日未明。第二軍が敵の防衛主陣地だと考えている鞍山站に攻撃をしかけると、ロシア軍はたいして防戦もせずに退却してしまった。好古が観察した通り、敵の主要陣地は首山堡だったのである。しかし、第二軍は首山堡を軽く見続け、大損害を被ることになった。のちに陸軍の軍神として祀られた橘周太たちばなしゅうた中佐が戦死したのもこの首山堡の戦いである。
8月30日。大兵力で守られている首山堡で、第二軍、第四軍は大苦戦を強いられた。力押しに押せば落とせると考えられていたが、ロシア軍の反撃は凄まじかった。死傷者は増え続け、元々少なかった砲弾も尽きかけてきた。総司令部の児玉は、第二軍・第四軍を主力として遼陽を落とすつもりでいたが、その主力が苦戦してちっとも進まない。予備の第四師団(大阪)を援軍に出したが、戦況はいっこうに好転しなかった。
主力が苦戦している中、好古率いる秋山支隊はその機動力を活かして主力が戦っている戦線よりもはるかに敵陣奥深くに入り込んでいた。好古は借りてきた砲兵を王二屯おうじとんという場所まで進ませ、秘密裏に砲兵陣地を建設した。この砲兵がロシア軍の東狙撃砲兵旅団の陣地に砲弾の雨を降らせたのである。ロシア側の記録によると、この日本軍の騎兵砲(日本に騎兵砲はなかったが、ロシアでは標準装備だったので「騎兵砲」と書かれていると思われる)による被害は凄まじく、特にこの旅団の第三中隊は2時間の交戦で現場指揮官である将校を全てたおされたうえに、砲二門も破壊されて戦闘不能状態に陥ったらしい。ロシア軍の左翼の司令官はシタケリベルグ中将であった。冷静な彼は、この突如現れた砲兵を撃退するために、予備軍の中からバイカルコサック騎兵砲第二中隊を引き抜いて出陣させた。ところが、現場近くになっても好古の砲兵がどこに陣地を築いているのかわからない。将校たちがそれらしき場所を見回し、砲弾の音や発射煙から陣地を見つけ出そうとしたが、いっこうに見つからない。その間に好古の砲兵は火を噴き続け、この援軍に来た騎兵砲中隊はまともに戦うこともできず、午前10時頃には大損害を被って敗走した。また、正午頃には東狙撃砲兵旅団の第一、第二中隊の将校がただ一人を除いて全滅してしまった。
「右翼に(日本軍から見れば左翼)日本騎兵現る」
この報を受けたシタケリベルグ中将は、日本騎兵を撃退するためにグルコ大佐に乗馬猟兵隊、沿海竜騎兵連隊、護境コサック騎兵連隊をつけて出陣させた。
一方その頃、好古は首山堡西方の村に陣取って前面の敵と射撃戦を繰り返していた。好古の司令部はなんと路上であった。彼は司令部を民家に置くことを好まず、たいてい外に置いていた。村に砲弾が落ちてきても顔色一つ変えなかったという。ここに、コサック騎兵300ほどが徒歩で銃撃を仕掛けてきたが、好古は歩兵一個中隊に迎撃を命じた。好古は、新手のコサック騎兵よりも、南方の戦場から聞きなれない砲声が聞こえるのが気になった。攻城砲ではないか?と思った。総司令部の児玉は遼陽戦のために、第三軍が旅順で使っていた攻城砲を二門借りていたのである。それを渡された第二軍は首山堡攻撃に使用していた。が、好古は攻城砲を遼陽停車場に射ち込むことを考えた。好古は、ロシア軍総司令官・クロパトキンの司令部が停車場のすぐそばにあること、弾薬などもその付近に集積されていることを騎兵の調査でつかんでいた。好古は副官の中屋を呼び、攻城砲で遼陽停車場付近を砲撃する旨を、第二軍司令部に伝えるように指示した。中屋は騎馬で第二軍司令部まで出かけていった。これはすんなり受け入れられ、攻城砲は首山堡を飛び越えて遼陽を直接襲った。
日本軍の左翼戦線(ロシア側の右翼戦線)は、秋山支隊が獅子奮迅の働きで次々とロシア軍を破ってはいるが、全体的には敗色が濃かった。第二軍・第四軍の主力部隊は砲弾不足もあって、攻撃どころではなくなってきたのである。秋山支隊がいかに奮戦したところで、主力が敗れては日本軍は負けである。この敗勢を一挙にひっくり返したのが、右翼の黒木率いる第一軍であった。クロパトキンは第一軍の鴨緑江渡河作戦以来、第一軍を最も怖れるようになった。主力の苦戦を見た第一軍は前衛のロシア軍陣地に猛攻をしかけて奪ったあと、わずかの兵を前線に残しただけで、本隊は濁流の太子河たいしがを渡って遼陽の東側に進撃を始めた。東側は、この川のために防備は手薄であった。第一軍はあっという間にこの一帯を制圧してしまったのである。この報を受けたクロパトキンは必要以上の恐れと焦りを感じた。あの第一軍が川を渡って東に現れた。
元々、第一軍に警戒心を強くしていたクロパトキンは、第一軍こそが日本軍の主力部隊ではないのか?と思い、第二軍・第四軍相手に勝っているロシア軍の主力を東側に向けたのである。
9月1日朝。左翼戦線のロシア軍が退却を始めた。第一軍と戦うためである。第二軍・第四軍は息を吹き返し、空家同然となった首山堡を占領した。第一軍はロシア軍の主力と交戦することになったが、よく善戦した。第一軍の強さにクロパトキンも根負けし、全軍に退却命令を出したのである。
9月7日。日本軍総司令部が遼陽に入城。この遼陽の戦いの死傷者は両軍とも2万人にも上った。
沙河しゃかの戦い
遼陽の退却以後、ロシア軍総司令官・クロパトキンの評判は悪くなった。「退却将軍」という悪名をつけられてさんざんに叩かれ、総司令官更迭案も浮上するというありさまであった。しかし、戦争途中で総司令官を更迭すれば士気に関わる。それよりも、クロパトキンが20万もの軍勢を一人で指揮するという組織に問題がある、ということになって、ロシア軍を二つに分けるという処置を皇帝がとった。第一軍はクロパトキンが、第二軍は本国から新たに派遣するグリッペンベルグ大将が指揮を執るのである。クロパトキンから見れば、ロシア軍総司令官から第一軍司令官への格下げである。この戦争に対する彼の戦略は、「満州の奥地まで日本軍を誘い込み、本国から輸送されてくる戦力を十二分に貯えてから一気に反撃する」というものだったようだ。クロパトキンは完全主義者、という評があるが、それは彼のこういう戦略案が源になっているのかもしれない。
グリッペンベルグが来る前に、この戦争にけりをつけなければ、戦後の自分の栄達が危うくなる。クロパトキンは反撃に出ることを決意した。
一方、対する日本軍の状況は良くない。補給が十分でないため、慢性的な砲弾不足に陥っていたのである。戦の基本に従えば、遼陽から退却するロシア軍を追撃して戦果を拡大するべきであった。しかし、それができないほど日本軍は近代戦の必需品である「砲弾」に不足していたのである。退却するロシア軍を追撃できず、本国から細々と輸送されてくる砲弾が貯まるのを待たねばならなかった日本軍は、完全に勝機を逸していた。
そんな折、ロシア軍が奉天を出陣して攻勢に転じる、という情報が入った。日本軍はこれを迎撃するために遼陽から北上。太子河の支流にあたる沙河付近で横に長い陣を構え、ロシア軍と対峙した。
10月8日。ロシア軍は、最も弱いと見た日本軍の右翼を狙って攻撃を開始した。日本軍の構えは遼陽会戦のときとほとんど同じで、右翼が黒木の第一軍、中央が野津の第四軍、左翼が奥の第二軍、そして秋山支隊は最左翼である。乃木の第三軍は、まだ旅順に手を焼いていたため、参戦していない。
この戦いも大苦戦を強いられた。負けても不思議ではない戦闘であった。もっとも、日露戦争の陸戦で日本軍が完勝したと言えるのは、緒戦である第一軍の鴨緑江の戦いのみで、あとはすべてぎりぎりの勝利である。遼陽では奮戦した秋山支隊も、ロシア軍の猛攻に必死に耐えるだけで精一杯であった。好古は、自分が育て上げた日本騎兵隊を、純粋に騎兵のみで運用することをほとんどしなかった。もちろん、捜索・偵察に騎兵を使ったが、ロシア軍との交戦では騎兵を馬から降ろし、歩兵として射撃戦に参戦させたのである。これには、いろいろ理由が考えられる。まず一つは、当時の日本騎兵は、世界最強を誇るロシアのコサック騎兵にはかなわなかったであろうこと。もう一つは、日本軍は常に兵力不足であり、秋山支隊も守備に使った、ということである。何度も書いたが、守備は騎兵の仕事ではない。本来の職務ではない守備に騎兵を使われるなら、それに合わせて騎兵を運用することを好古は考えた。それが、歩兵・砲兵・工兵を加えた複合軍団であり、機関砲の導入である。この戦いで、秋山支隊は「陣地前進主義」と呼ばれる戦法をとった。これは、ある拠点に陣地を築いて防戦し、それが終わったら次の拠点に進んで再度陣地を構築して敵を防ぎ、それが終わったらまた次の拠点へ前進して・・・という具合に、陣地を築きながら少しずつ前進するという戦法である。この戦法はロシア軍の基本戦法であり、日本軍でこの戦法を用いたのは秋山支隊ぐらいであった。他の日本軍は、陣地構築を頻繁には行わず、軍がどんどん前進していった。
この複合軍団を指揮する好古は、いつも前線に近い司令部で地図を見ながら作戦を練っていた。陸軍大学校を出た好古には参謀は必要なく、秋山支隊の作戦は彼が一人で作っていた(日本騎兵を養成したのは好古なので、好古以上に騎兵を学び参謀を務められる人物はいない、という理由もある)。もちろん、彼の冷静さを保つ酒は欠かせない。また、タバコもたくさん吸っていた。現代の健康医学から見れば、不養生きわまりないが、彼の冷静な判断には必需品らしい。そして、彼は拳銃を机の上に置き、そのひもを首にぶらさげていた。これは、ロシア軍が好古の司令部までやってきたときに、自殺するためのものだったらしい。
10月13日。戦闘開始から5日目。各戦線で激戦が続いていた。砲撃戦、銃撃戦だけでなく、両軍で陣地をとりあうために白兵戦もあちこちで行われていた。どちらが優勢かは定かではない。秋山支隊は戦線よりもだいぶ前進していた。沙河の北方を流れる大河、渾河こんがの東岸に沿って前進していた。頭台子とうたいしという村を過ぎた頃、コサック騎兵二個旅団ほどと遭遇した。兵力は秋山支隊のほぼ二倍である。コサック騎兵の武装は、射撃戦用の騎兵銃と、接近戦用の長槍である。すみやかに部隊を展開させると、前列は馬上射撃(騎射きしゃという。かなりの訓練を積まないとうまくできない)を行いつつ前進し、後列は長槍を構えて突撃に備えた。これこそ騎兵、と感心する好古だったが、自分の騎兵にはまったく異なる戦法をやらせた。騎兵は馬から降ろし、歩兵として射撃をさせる。これに歩兵も加えて射撃陣容を強化し、砲兵は後方で砲列をつくって援護射撃を行わせた。騎兵には銃で対抗するという戦法は、戦国時代終わり頃の長篠の戦いでも成功している。騎兵が正面から突進するのはあまりに危険な時代であったが、騎射ができるほどの精鋭騎兵であるコサックは正面突撃を好む傾向があった。コサック騎兵は二倍近い兵力であったにも関わらず、好古の複合軍団に敗れて敗走した。馬上で戦死者を拾い上げる技を持つコサック騎兵は、遺棄死体をほとんど残さないのが習慣であったが、この戦闘では50体ほどの遺棄死体が出た。騎兵銃・長槍の遺棄は合わせて500ほどもあった。一方の秋山支隊の損害はたいへん少なく、死傷者20名ほどだったという。
沙河の戦いは、日本軍の不眠不休の夜襲とロシア軍の退却で幕を閉じた。ロシア軍の退却といっても、沙河の北岸まで後退しただけであり、戦線が少し北に移動しただけである。ロシア軍は沙河の北に陣地を構築し、日本軍は沙河の南に陣地を構えて防御を固めた。長大な塹壕が掘られ、両軍はにらみ合いの形をとった。これは「沙河の対陣」と呼ばれている。
満州の冬は早い。11月には既に冬の気候であった。沙河の戦いでの日本軍の死傷者は20497人にものぼり、遼陽会戦並みの被害を受けた。対するロシア軍はもっと多く、遺棄死体だけで13333体、捕虜が709人。全部で41351人もの死傷者を出した。


<好古挿話 その五>
陣中からの手紙

遼陽会戦の前、好古は陣中から東京の家へ手紙を送った。
それには、こんなことが書いてあったらしい。
お祖母さんの心意気
戦などやめて
平和に暮らしたい
戦は平和の為にせよ
これは歌ではないが、詩のようでもない。しかし、戦の直前にこのような内容の手紙を書くところを見ると、「最後の古武士」と呼ばれた好古も、戦争好きな人間ではなかったように思われる。こんな好古が、日露戦争のような激戦で優秀な指揮官としていられたのは、責任感なのかもしれない。軍人という道を選んだ以上、彼は「軍人」であろうとしたのであろう。彼には、そんな言動が多かった。


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