BGM:アツィルトの森
composed by TAM

<奉天へ・・・>

黒溝台こっこうだいの死闘

満州の冬は、日本ではまず味わえないような厳しい環境だった。平均気温はなんと零下20℃、風が吹けば体感温度は零下30℃にもなり、夜間には零下40℃にもなっという。沙河の戦い以後、日露両軍共に塹壕に潜って寒さをしのぎ、戦いは自然と休戦状態に入った。
この対陣の間、日本軍には朗報があった。年明け早々の元旦、ついに旅順要塞が陥落したのである。年末、総司令部の児玉源太郎が沙河戦線はしばらく膠着すると判断し、一時的に旅順で第三軍の乃木希典から指揮権を委譲してもらい、臨時に指揮をとって陥落させたのである。これによって要塞内の軍港に隠れていた旅順艦隊は壊滅し、来るべきバルティック艦隊との交戦の前に、連合艦隊は佐世保の港で修理・補修を受けることができた。もちろん、海軍兵士達にも一時の休息が与えられた。しかしその一方で、陸軍の状況は切迫していた。第三軍は旅順の後始末が一段落ついた後、友軍が待っている沙河に向かって北上したのである。
一方、ロシア軍は内部に問題を抱えていた。遼陽撤退の後、ロシア軍全体が再編成されると共に、これまで総司令官であったクロパトキンは格下げされ、新たにやってくるグリッペンベルグ大将と同格でロシア軍を指揮するようになったのだが、グリッペンベルグが戦線に到着した頃には状況は変わっていた。優秀な官僚でもあったクロパトキンは、巧みに宮廷工作を行い「極東陸海軍総司令官」という職に就いて相変わらずロシア軍の総司令官の地位にいた。ただし、これまで一つだったロシア軍も、四つに分けられた日本軍の編成を真似て三つの軍に分けられた。その編成は

・第一軍 リネウィッチ大将
・第二軍 グリッペンベルグ大将
・第三軍 カウリバルス大将

というもので、グリッペンベルグは当初の予定とは異なり、クロパトキンの下につくことになったのである。当然、彼は激怒した。こんないざこざがあったため、彼はクロパトキンの戦略に反対するようになった。クロパトキンは、沙河の戦いで失った戦力を十分に回復するまで待ち、それから反撃に出ることを主張したが、グリッペンベルグは既存の戦力で十分日本軍を破ることがきると主張した。この論争は、グリッペンベルグ案にクロパトキンが押された形で決着がつき、攻撃準備を整えることになった。そんな折、旅順が陥落したという知らせが彼らのもとにも届いた。この報に対する二人の態度はまったく正反対なものであった。クロパトキンは、間もなく日本軍には第三軍が合流するだろうから、十分な戦力が整うまで待つ、と方針転換を考えたことに対し、グリッペンベルグは第三軍が来る前に日本軍を破るべき、と主張したのである。グリッペンベルグは、日本軍の防衛線は中央と右翼は厚めだが、左翼は比較的薄い。特に、最左翼は脆弱であることから、日本軍左翼に大軍を送り込んで打ち破り、そこを突破口として背後に回りこみ、前後から挟撃して日本軍を壊滅させる、という作戦を提案したのである。脆弱と評された日本軍の最左翼を守るのは秋山支隊であった。クロパトキンは優れた頭脳を持っていた。だから、グリッペンベルグの作戦が実に的を射たものであることはよくわかっていたが、優秀な官僚でもある彼の頭脳がそれを受け入れたくなかった。グリッペンベルグの作戦で日本軍を破っても、自分の手柄にはならない。それどころか、戦後、自分が失脚してグリッペンベルグが栄光を手にするかもしれない・・。そんな情景が彼の頭に浮かんだのかもしれない。結局、グリッペンベルグの第二軍を増強して日本軍左翼を攻撃させ、それがうまくいったらロシア軍全軍が日本軍全軍を攻撃する、という中間的な作戦をとった。
一方、最左翼の好古は長い対陣期間の間も、しきりに騎兵による情報収集を行っていた。それだけでなく、少数の騎兵のみからなる部隊をロシア軍の後方に送り込み、武器・食料貯蔵地襲撃や鉄道爆破という後方撹乱もやらせていた。好古は騎兵旅団という巨大な単位でそれをやることを具申したが、総司令部は認めなかったようだ。理由はいろいろあるが、一番大きいのはやはり兵力不足だろうか。騎兵旅団がごっそりいなくなっては、防御が危ういのである。ちなみに、後方撹乱に派遣された少数騎兵部隊のうち、特に永沼秀文中佐率いる170騎ほどの永沼挺進隊は遠くモンゴル地帯にまで進出し、兵站倉庫を襲撃し、鉄橋を爆破し、またコサック騎兵の部隊とも交戦して打ち破るという快挙を成し遂げている。
話は黒溝台に戻る。好古が騎兵偵察で探った、ロシア軍に大攻勢をかけてくる気配がある、という情報は総司令部に何度も届いたが、ことごとく無視された。この頃の総司令部は「ロシア軍は冬には動かない」という固定観念がつきまとっており、好古がいくら言っても聞こうとはしなかった。秋山支隊を狙って、続々とロシアの大軍が集結を始めていた。
1月25日未明
前哨がロシアの大軍に襲撃されて、やむをえず退却したという電話が好古のもとに届いた。グリッペンベルグ大将率いる10万近くの大軍が秋山支隊を襲ったのである。ロシア軍が襲った、秋山支隊が守る黒溝台付近の布陣は少々風変わりなものであった。東から順にあげると
拠点名 指揮官
李大人屯りたいじんとん 秋山好古少将(本陣)
韓山台かんざんだい 三岳於菟勝みたけおとかつ中佐
沈旦堡ちんたんぽ 豊辺新作とよべしんさく大佐
黒溝台こっこうだい 種田錠太郎たねだじょうたろう大佐

という配置で、秋山支隊の本陣が右端にあった。しかもここが敵に一番近い。好古は、敵情を素早く察知するために敵に近いところに前線を置いた。旅順で苦戦した第三軍の司令部が、戦線のはるか遠くに置かれていたのとは正反対である。また、この位置は秋山支隊が所属する第二軍司令部に最も近いため、当然連絡も早くなるということである。そして、この目的のために兵の配置も一般的なものとは異なった。主力兵器の機関砲はどの陣にも配備したが、好古自身が鍛え上げた直属の騎兵第一旅団を本陣におかず、防衛の際に要となる沈旦堡の豊辺大佐に預けてしまったのである。本陣の騎兵は伝令用騎兵のみで、あとは砲兵と歩兵で守らせた。
秋山支隊の守りは、上の4つの拠点を中心として、この周りに枝を伸ばしたように多数の小拠点がある。これらは全て濠を掘り、遮蔽となる土壁を盛って銃口を穿った小さな野戦要塞のようなもので「拠点式陣地」という。ロシア軍の基本戦法である野戦陣地を、好古が用いることでロシア軍を防ごうとしたのである。
一方、総司令部では、好古が投降してきたロシア兵から聞き出したグリッペンベルグ大将が指揮を執っている」という情報で、やっとロシア軍が攻めてきたことを認識した。しかしこれは威力偵察程度のものと判断し、第八師団(弘前)を回すことで対応した。一個師団の兵力は1万数千である。10万を越えるロシア軍には到底及ばない。総司令部はロシア軍の攻勢を読み取れなかっただけでなく、敵情判断の誤認を続けて「兵力の逐次投入」という、戦術の禁じ手をやってしまった。戦術の基本原理に「戦力は集中して用いる」というのがある。10の兵力があるなら、10まとめて使うのが一番強い。1ずつ順番に出す逐次投入では、個別に撃破されて終わってしまうのである。援軍は期待できなかった。秋山支隊の死闘が始まった。
ロシア軍、第十軍団長のツェルビツキー中将は、中国人からの諜報で秋山支隊の司令部が李大人屯にあることを知っていた。彼の目標は沈旦堡であったが、まず李大人屯へ大規模な砲撃を行ったのである。当時の陣地攻撃の基本は、砲撃で十分に防衛力を削っておいてから、歩兵・騎兵が突撃を開始するというものだった。中将が李大人屯へ砲撃を集中したのは、秋山支隊司令部に、自軍の攻撃目標が李大人屯であると思わせ、他から兵を割かせて防御を固めさせる分、沈旦堡の防衛力を弱くさせるためである。しかし、好古はその手には乗らなかった。李大人屯は激しい砲撃を受けてはいるが、歩兵・騎兵の姿は見えなかった。この砲撃は、後の突撃のための「道ならし」ではないと判断したのである。
戦の勝敗には大将の駆け引きがおおきく作用する。その点、好古は冷静に戦況を見て的確な判断を下すことに長けていたが、彼にも誤りはあった。ロシア軍が韓山台の前哨に猛攻をかけ、激戦の末に占領したという報告を受けた好古は、ロシア軍の目標は秋山支隊の中央を突破することにあるのではないかと考え、沈旦堡の豊辺大佐に韓山台の支援を命じたのである。当然、沈旦堡もロシア軍の猛攻を受けていたが、大佐は兵の一部を割いて韓山台に送った。しかし、ロシア軍は秋山支隊の左翼突破が目的であった。夜になると、沈旦堡への攻撃はますます激しくなった。好古へ連絡する余裕もなかった豊辺大佐は、独断で後方の歩兵連隊に援軍を要請した。戦闘は激しさを増していった。
10月26日
寒気厳しく、吹雪になった。雪のために、両軍共に視界が遮られることもあったが、戦闘は続いている。この日の朝、ようやく危機的なこの状況を少し理解した総司令部は大混乱を極めていた。ある参謀が電話で命令を伝える一方で、別の参謀がそれとはまったく逆の命令の伝令を飛ばしたりした。この時ばかりは参謀本部長・児玉源太郎も、その懐刀と呼ばれた松川敏胤まつかわとしたねも事態を収拾できなかった。
秋山支隊への援軍を命じられていた第八師団は本部が弘前にあり、青森・秋田・山形・盛岡四県の出身者から構成されており、熊本の第六師団と共に最強と評されていた。師団長は立見尚文たつみなおぶみ中将である。彼は幕末、桑名藩の洋式歩兵隊長として新政府軍と各地で転戦し、その存在を恐れられた人物である。この時、61歳。25日正午に総司令部から黒溝台の救援を指示された第八師団は前線から20kmほど後方にいた。総司令部の混乱ぶりを見て、戦慣れしている立見は事態の容易ならざることを察知した。兵の召集が終わるとすぐに現場へ向かい、零下30℃もの酷寒の中を進軍し、一人の落伍者も出さずに黒溝台付近に到着した。この時、黒溝台を必死に守る種田大佐の部隊はぼろぼろの状態であったが、なんとか持ちこたえていた。好古は、各部隊に「固守」を命じていた。秋山支隊が崩れれば、日本軍全体の崩壊につながると考えたのである。死んでも守りきらねばならなかった。ところが、第八師団の参謀長・由比光衛歩兵大佐は、黒溝台の戦況を見て一計を提案した。いったん黒溝台を捨てる、というのである。ロシア軍がさらに進撃し、黒溝台が空いたところを奪い返し、その退路を断つ、というのである。第八師団は、最後の予備隊として日本本土に残っており、これまでに参戦したのは沙河の戦いだけだった。そのため、ロシア軍の習性に暗かったようだ。この案は日本軍相手なら通用するかもしれないが、ロシア軍の習性は「陣地前進主義」である。黒溝台を取ったら、そこに陣地を築いて自軍の拠点にするのが彼らの基本戦法である。事実、そうなった。しかも、この作戦は好古に無断で行われた。由比大佐の案は総司令部の松川敏胤に批判されたが、結局は許可された。そして、総司令部の命令が種田大佐のもとに届いたのである。本来なら、種田大佐への指示は彼の上司の好古が行うはずであったが、総司令部がやってしまった。この日の日没頃、好古が知らない間に種田大佐の部隊は黒溝台を捨てて退却してしまったのである。当然、ロシア軍は黒溝台を占領した。そして、いつものように陣地構築を始めたのである。(役に立たぬ参謀だ)と思った立見尚文は、自分が作戦を練る必要性を感じた。この頃、黒溝台よりもさらに激しい攻撃を受けていた沈旦堡の豊辺隊はじめ、他の拠点は雨のような砲撃に耐えて防衛を続けていた。
好古は総司令部や友軍のふるまいに対して、感情をあらわにして抗議するようなことはほとんどなかったが、この黒溝台の時はいくつか不満を述べ、婉曲的に総司令部を非難している。種田隊の退却について「こんなことはいかんのじゃ」と何度も砲声で揺れる司令部でぼやいた。戦況は厳しくなった。3つになった拠点に対する攻撃はますます激しくなった。黒溝台を占領したロシア軍は、援軍にやってきた第八師団に攻撃を始めた。10万もの大軍を抱えるロシア軍に対して、1万数千ほどの援軍は焼け石に水であった。立見尚文率いる第八師団は、黒溝台を取り返すどころではなく、多数のロシア軍に包囲され全滅の危機に陥った。この日の夜、総司令部はさらにもう一個師団を救援に送ることにした。しかし、後方に控えている予備軍はもうない。危険を承知で、第二軍の主力である第五師団(広島 師団長は木越安綱中将))を中央から引き抜いて送ることにした。
10月27日
夜間の急行軍で戦場に到着した第五師団であったが、これも焼け石に水であった。第五師団はあちこちで苦戦を続けている第八師団の救援で精一杯で、秋山支隊の救援にまで兵を割く余裕がなかった。秋山支隊は孤軍奮闘を余儀なくされた。この激戦のさなか、好古にはいくつかの話が残っている。総司令部から田村守衛たむらもりえ騎兵中佐が、ただ一騎で好古の司令部にやってきた。児玉源太郎の命令で、様子を見に来たのである。好古は、いつもの通り酒を飲んでいた。好古は田村騎兵中佐の姿を見ると「田村、進級したのか」とまず最初に尋ねたらしい。田村中佐は「閣下の様子を伺いに参りました。いかがでしょうか」と訪ねたところ、好古は「見てのとおり、無事だ」と答えたという。この戦況で無事なわけがないが、まだ秋山支隊は生きていることを伝えたかったのだろうか。
他にももう一つ。豊辺大佐が伝令を飛ばして、好古に「馬を後退させたい」と具申した。事実、騎兵は全員下馬して射撃戦をやっていたが、馬は、敵の攻撃を受けてバタバタとやられてしまっていたのである。これ以上馬の損害を増やさないための処置であったが、好古は認めなかった。言葉を付け加えた。
「騎兵はな、馬のねきで死ぬるのじゃ」
「ねき」というのは「〜のそば」という意味の伊予言葉らしい。そばで聞いていた田村中佐は(これは難しい問題だ)と思った。合理的に見れば馬を下げるべきである。今は何の役にも立っていない。しかし、ここで馬を下げれば、好古自身が騎兵が役に立たないということを認めることになってしまうのではないだろうか。騎兵の運用法に理解が浅いだけでなく「騎兵無用論」まで出ている風潮の中で、これを認めてしまったら・・・。好古は、あくまで騎兵であることにこだわった。下馬・射撃戦術は現在の状況で勝つためにとった戦法であり、本来の騎兵の姿ではない。騎兵を否定することは、彼の人生を否定するに等しいことだったのだろう。
総司令部は第五師団を送ったのち、さらに第一軍の第二師団(仙台)、その後第二軍の第三師団(名古屋)を引き抜いて送った。禁じ手とされている逐次投入である。送られた師団はなんとか連携を取ろうとしたが、大軍のロシア軍の前に苦戦を強いられた。しかし、秋山支隊の苦戦はそれ以上であった。大津波に襲われた孤島の如く、ロシア軍の砲撃を受けるときは息もつけないほどの惨状であったという。ロシア兵が突撃してくるときの方が、砲撃がやむので楽だったとも言われている。この秋山支隊の難戦をぎりぎりの線で救っていたのは、好古が持たせた機関砲であった。砲撃の後に突撃してくるロシア軍歩兵は、この機関砲が火を噴くとともに薙ぎ倒され、多量の死者を出して後退した。秋山支隊は機関砲で生きながらえたと言っても過言ではないだろう。最大の激戦地となった沈旦堡を守る豊辺大佐は、要塞守備に向いた粘り強い性格で実によく守った。あまりの激しい砲撃に、好古は「もう沈旦堡には一人も日本兵はいないだろう」と思ったらしいが、豊辺大佐の督戦で粘り続け、ついに守り抜いていたのである。
10月28日
順々にやってきた援軍諸隊が徐々に連携を取り始め、形勢を回復しつつあった。最初の援軍だった立見尚文の第八師団は、後方に下がった負傷兵までもがコサック騎兵の襲撃を受けるなど、大きな被害を出していたほどだったが、友軍の援護を受けてようやく黒溝台を奪還することに成功したのである。しかし、前半の苦戦による損害は大きく、第八師団は全軍の約半数にあたる6248人もの死傷者(うち、戦死1555人)を出し、戦闘力は激減していた。ロシアのグリッペンベルグはなおも攻撃を続けようとしたが、できなかった。クロパトキンから退却命令が届いてしまったのである。正面の日本軍が攻めてきたというのである。日本総司令部は、黒溝台へ援軍を送った分、前線が弱くなっていることは十分わかっていたので、ロシア軍威嚇のために一部の兵を出して戦線中央部に攻撃を行っていたのである。クロパトキンの真意はわからないが、グリッペンベルグには本陣が襲撃されているから至急撤退せよ、と命令した。グリッペンベルグは命令無視してでも攻撃を続けようとしたが、さすがにそれはできず、しぶしぶ全軍に撤退命令を出した。
こうして、秋山支隊は何とか黒溝台を守り抜いた。この戦闘に参加した日本軍兵数は53800人で、死傷者9324人。ロシア軍は105100人で死傷者11743人であった。退却途中、グリッペンベルグは怒気を含んで副官に辞表の草案を作らせていた。グリッペンベルグは辞表をたたきつけて本国に帰ってしまったのである。戦功を妨害された怒りがおさまらなかった彼は、帰国後もあちこちでクロパトキンの悪口を触れ回った。
なお、グリッペンベルグが抜けたことで空席となった第二軍司令官の座は、クロパトキンお気に入りのムイロフ中将が代理として就任した。が、ムイロフの階級は中将だったので、のちに第三軍のカウリバルス大将を第二軍司令官とし、第三軍司令官にはビリデルリング大将が任命された。
奉天ほうてんの決戦
松山市、梅津寺駅付近にたたずむ好古の銅像。
彼の視線の先には奉天があるのだろうか・・。

黒溝台の戦は、秋山支隊と援軍諸隊の奮戦でなんとか守り抜くことができたが、日本陸軍の力はもう限界に近づいていた。現役の兵は全て戦場に出ており、本国に控えている現役兵団はもうない。合戦のたびに失われた戦力は「応召兵おうしょうへい(主に退役軍人などからなる、現役兵でない人達)」で補充されたが、当然、兵としての質は現役兵より劣る。ロシア軍が、ヨーロッパから現役兵団をどんどん補充して増強されていくのとはまったく逆であった。また、国家予算も借金だらけで、これ以上戦争が続けば破産であった。元々、日本軍の狙いは短期決戦である。春が来る前に、ロシア軍に致命的な打撃を与え、判定勝ちで講和に持っていくため、最後の決戦計画案が総司令部で作り上げられていた。
一方、ロシア軍は沙河の陣から退いて奉天に駐留していた。その間、再度日本軍左翼を攻撃する計画が持ち上がっていた。グリッペンベルグがやった黒溝台攻撃についてはクロパトキンも反対ではなかった。むしろ、戦術としては賛成だったのである。悪く見れば、その戦術をグリッペンベルグが指導して功を立てることが問題であり、クロパトキンが指導すればなんら問題はない、ということである。しかし、優れた頭脳で完全主義的な戦略を立てる彼にとって、大きな不安要素が一つあった。旅順を落とし、北上してくる乃木希典率いる第三軍である。彼の頭脳は、ノギ軍10万(実数は三万四千。ロシア軍は、敵勢を過大に見る傾向がある。日本軍はその逆で、過小に見る傾向がある。)がどこに現れるかでおおいに悩まされ、戦闘開始後もこれが大きく響いた。
この頃、日本本国の主な新聞は「日本軍勝利」を大きく報道しており、およそ前線では考えられないような声が国内世論に出回っていたらしい。戦後、ロシアから賠償金が取れなかったことで暴動が起きたのも、一つにはこういう戦況認識があったから、と思われる。大本営までもが、「せっかく勝つのならロシア領をどこか切り取りたい」という政治的な欲望が生じていた。開戦前は、なんとか五分五分の戦を六分四分まで持ち込んで講和に持ち込む、という考えだったが、幾分かの勝利が見えて、欲がでてきたのだろうか。戦況次第でどこかロシア領を占領するための軍を・・・。そこで、作られたのが「鴨緑江軍」であった。現地総司令部の児玉源太郎らは、とてもそんな余裕はないと反論し、幾分もめたが、結局は政治目的の「鴨緑江軍」は編成されることになった。軍司令官は、第十一師団の川村景明かわむらかげあきが大将に昇格して任命された。第十一師団は、第三軍の主力部隊である。これに、応召兵からなる部隊を加えて小規模ながらもなんとか一軍としての形を作った。この鴨緑江軍、現地総司令部では甚だ不評であった。「かも軍」などと呼ばれて侮られることもあった。この「鴨軍」が意外な功を立てることになるとは、誰も予想できなかった。
2月20日
奉天決戦の作戦指示を行うため、各軍司令官が総司令部に召集された。作戦の概要は「ロシア軍を包囲する形で攻める」こと、である。問題の鴨緑江軍は奉天東の清河城を攻め、東から奉天を狙う。直接奉天包囲に加わる軍の顔ぶれは、基本的には従来と同じで、東から第一軍、第四軍、第二軍となった。合流した第三軍は奉天西側を北上し、ロシア軍の背後に回る役目を担った。秋山支隊は第二軍の指揮下にあったが、騎兵の機動力を活かすことを考えれば、第三軍の任務のほうが向いている。第二軍司令部からは、第三軍の支援もするように指示され、のちに臨時に第三軍の指揮下に入ることになる。この一大決戦に際して、総司令官・大山巌の訓示が送られてきた。
この会戦においては、我はほとんど帝国陸軍の全力をあげ、敵は満州において用うべき最大の兵力をひっさげてもって勝敗を決せんとす。この会戦において勝を制したる者はこの戦役の主人となるべく、じつに日露戦争の関が原というも不可なからん というものであった。奉天のロシア軍は32万、日本軍は25万。少ない方が多い方を包囲するという奇妙な作戦で奉天の決戦は始まった。
2月23日
会戦の口火を切ったのは、不評の「鴨軍」、鴨緑江軍であった。役立たずと罵られていた鴨緑江軍は意外にも善戦した。彼らが攻めた清河城はなかなかの要塞で、旅順で辛酸をなめさせられた第十一師団はこの清河城を「小旅順」と呼ぶようになった。ところが、鴨緑江軍所属の弱兵師団、後備第一師団参謀長の橋本勝太郎中佐が命がけで前線を偵察し、弱点を発見した。鴨緑江軍がここに攻撃を集中して防衛線を突破すると、清河城のロシア軍守備隊は算を乱して敗走したのである。日本軍以上に驚いたのはロシア軍総司令官・クロパトキンであった。彼はノギ軍10万の動向を追って、しきりに情報収集をしていた。弱兵を集めた鴨緑江軍ができたのも知っていたが、その主力として乃木第三軍隷下の第十一師団が編入されたことまではわからなかった。そのため、第十一師団が東部戦線に現われたことを知り、ノギ軍は東部戦線に来たと判断したのである。ロシア軍の主力は西部戦線に置かれていたが、これを大掛かりに配置転換して東部戦線に移動させた。クロパトキンの部下達は、東部戦線に援軍を送る必要はあるが、主力を移動させてまでやる必要はない、と意見したが、クロパトキンは自分の意見を変えずに実行に移してしまった。ロシア軍主力と戦わねばならない鴨緑江軍にとっては由々しき事態であったが、全体的に見れば、ロシア軍は過大な配置転換でかなりの無駄を生じることになり、日本軍はそれにだいぶ救われることになった。
その後、乃木希典率いる本物の第三軍が西部戦線に現れたことを知り、移動させた主力を再度西部に戻したが、この無駄な移動は戦闘に参加できない部隊を多く作製してしまった。
大房身の戦い
3月1日
主戦場から少々離れた鴨緑江軍の攻撃開始から遅れて日本軍の総攻撃が始まった。秋山支隊は第三軍の北上を助けるため、翌2日、臨時に第三軍の指揮下に入ることになった。また、第三軍の指揮下にあった田村久井少将率いる騎兵第二旅団も秋山支隊に加わることになり(階級は同じだが、田村少将よりも好古の方が古参)、ここに日露戦争最大の日本騎兵隊が結成された。内容は、騎兵七個連隊、機関砲二個小隊、騎砲兵二個中隊であり、3000騎の騎兵が揃ったのである。好古は田村少将と合流すると「田村、奉天でまず一杯やろう」と言ったという。
合流すると、早速秋山支隊は北上を始めた。騎兵が主力である秋山支隊の行軍速度は速かった。この支隊の北上を食い止めるべく、トポルニン中将の主力が接近してきたが、好古は相手にしないでどんどん進軍し、はるか遠くまで引き離してしまった。
3月3日。大房身という村に到着。ここで、ビルゲル中将の支隊と遭遇した。ビルゲル支隊の兵力は歩兵が九個大隊、砲兵三個中隊十二門、騎兵八個中隊で、兵力から見れば秋山支隊の三倍ほどである。しかし、機関砲は持っていなかった。好古は、これまでのように騎兵を馬からおろすと、防御陣地に入れて防衛態勢をとった。
戦闘は午前10時頃から始まり、銃撃戦、砲撃戦が四時間あまり続いた。ビルゲル中将は砲兵の指揮に長けており、巧みな砲兵陣地転換で三方向から砲撃を浴びせるなど、実によく戦った。ロシア歩兵の突撃も勇猛果敢なもので、砲兵陣地の800メートル手前まで接近してくるこもあった。これらロシア軍の攻撃に対し、あくまで好古は砲と機関砲で対応した。特に機関砲の攻撃力は群を抜いており、これが火を噴くたびに、突撃してくるロシア兵は多量の死傷者を出して後退せざるをえなかった。
この戦闘中、好古が信頼していた部下、豊辺新作大佐が負傷した。冷静沈着でねばり強い性格で、黒溝台の死闘でロシア軍の標的となった沈旦堡を守り抜いた人物である。彼が前線で督戦していたとき、右足に小銃弾を受けた。弾は貫通していたので、自分で傷口に包帯を巻いて処置し、野戦病院にも行かなかった。その程度の傷だったのだが、豊辺大佐負傷という報告を受けたとき、「本当か!?」と、好古はめった見せない驚愕の表情を見せたという。
夕方頃、ビルゲル中将は攻撃をあきらめ、部隊をまとめて退却を始めた。ロシア軍は退却戦に優れている。殿軍を残しては兵を退く、の繰り返しで、隙を見せずに見事に兵を退いていった。好古は見事な退却に感心するとともに、砲兵に追撃をさせた。消耗しやすい歩兵や騎兵は出さなかった。砲兵を守るために、機関砲隊を付属させたが、追撃兵力はそれだけである。ロシア軍はこの追撃戦で大混乱を起こし、死傷者の回収もできずに敗走してしまった。この戦闘で受けた被害はあまりに大きく、ビルゲル支隊は奉天の主力決戦に参加できなかった。
好古は名将と評されるが、この戦闘でもその一面がうかがえる。彼は秋山支隊に勝利をもたらすのはもちろん、日本軍全体という観点から見た自軍の役割を忘れなかった。黒溝台の戦闘で全部隊に固守を命じ一歩も退かなかったのも、自分の支隊が退けば日本軍全軍が敗れるからである。好古は騎兵旅団を率いる少将である。彼は洋式騎兵を学び、陸軍大学校ではガラス窓を拳で突き破って騎兵の性質を表現した。騎兵の本質は、その機動力を活かして不意に敵を強襲して打ち破ることにある。ただしこれを行うと、敵軍を粉砕することはできるが、騎兵自身も傷を受ける。つまり、重要な局面で戦況をひっくり返すことができるが、傷つきやすい兵科なのである。ところが好古は、騎兵を騎兵として戦わせることはなかった。日本騎兵は、戦闘では馬を下りて歩兵になるのである。その理由はおそらく、好古が臨んだ戦いほとんどが兵力の面で劣っていたことではないだろうか。この状況で勝利を勝ち取るための戦法が、ロシア軍が得意とする陣地防御戦法であった。また、今回の大房身の戦いでもそうだが、これら局地戦で勝つだけでは日本軍全体の勝利にはならない。秋山支隊に課せられた任務は奉天の北側に回ることであり、ビルゲル支隊を木端微塵に粉砕することではない。追撃戦で騎兵を使えばもっと損害を与えることができただろうが、おそらく騎兵もそれなりの損害を受ける。支隊の主力である騎兵の損害が大きくなれば秋山支隊の戦力は激減し、それは第三軍にも影響を与え、第三軍の北進が失敗すれば日本軍が敗れるのである。そのため、彼は少ない戦力が減少するのを抑えるため、砲兵と機関砲兵だけで追撃をやらせたのである。この戦闘での秋山支隊の損害はわずかであった。
この日の夜には、ロシア軍のほとんどが退却あるいは敗走していたが、一部の部隊が北方に止まって銃砲撃を続けていた。好古は残留部隊がいることから、翌日のロシア軍の襲撃を予測した。好古の経験では、こういう場合のロシア軍の再来襲は前日よりもずっと増強されており、秋山支隊の防御陣地も知っている分、攻撃も巧妙になる。あの残留部隊はその時のための攻撃軸の役割を果たすのだろう。他の可能性は薄い。好古は防衛に有利な地点まで後退することを決意した。勝利軍が後退するという決断は凡将にはできない。ちなみに、この夜間の後退で「敵襲」というデマが飛んで支隊全体が一時混乱状態に陥ったが、好古は司令部を飛び出して「敵襲は間違いじゃ!間違いじゃ!」と大声で叫んですぐに混乱を収拾した。
翌日。好古が予想したロシア軍の襲撃はなかった。襲撃がないとわかると、好古はすぐに北進を始めた。酒豪の彼は行軍中でも、馬上で酒が入った水筒をラッパ飲みした。そのため、当番兵の綿貫は自分の水筒にも酒を入れていた。好古は自分の水筒の酒を飲み干すと、「綿貫よ」と呼んだ。綿貫は馬を寄せて自分の水筒をわたそうとしたが、好古は自分から綿貫の馬のやや後ろに馬を寄せ、体を伸ばして綿貫の腰の水筒に口をつけて、吸い上げるようにして飲んだ。なんとも滑稽な仕草で、副官達は笑いだしてしまったが、好古は気にもとめなかった。これを砲弾が落ちる状況下でもやったというのが凄い。
北進するにつれてロシア軍との交戦も激しくなったが、秋山支隊は持ち前の速さと火力で突破し、4日の夕方には奉天の西までやってきた。これを知ったクロパトキンは、自分が包囲されつつある、と動揺した。
3月7日夜
秋山支隊は重厚なロシア軍の防衛陣地の中を、必死の思いで少しずつ前進した。そして、ついに奉天の北方約20kmの地点まで到達したのである。この報告を受けたクロパトキンは、鉄道を爆破されて退路が遮断される、と判断した。これこそが、好古の、そして日本軍総司令部の狙いであった。鉄道を遮断されたら全軍が窮地に陥るかもしれない。クロパトキンはその恐怖から防衛線を下げるために、前線の将兵に退却命令を出したのである。この頃、各戦線では守るロシア軍が優勢だった。そこに、退却命令が来たのである。勝っているのになぜ退却する?ロシア軍の将兵は納得いかず、あちこちで不平不満が噴出した。おだやかな性格の第三軍司令官・ビリデルリング大将は、伝令将校に「確かに奉天の北に日本軍が現れたのは重大なことであるが、その程度の兵力なら予備隊に迎撃させれば対応できるではないか。君からも、そうするように閣下を説得してほしい」と頼み込んだ。第一軍司令官・リネウィッチ大将も、第二軍司令官・カウリバルス大将も、退却反対の意見を出したが、クロパトキンは自分の案を押し通した。リネウィッチ大将は怒りのあまり帽子を投げ捨てて、「今からクロパトキンの指揮下を離れ、朝鮮まで攻め込む!」とわめいたという。
結局、ロシア軍の前線は退却を始めた。これが、奉天会戦の日本軍の勝利を導いた。クロパトキンは戦線を後退させるだけでなく、彼が想定する危険箇所に大軍を投入するために、前線からごっそりと兵力を引き抜いてしまった。当然、前線の防衛力は弱くなる。そうなってしまうと、今まで押さえつけられていた日本軍が勢いを取り戻し、前線の戦況は不利になってきた。クロパトキンは、いっそ奉天を捨ててさらに北の鉄嶺てつれいまで退却することを決意した。こうなると、もはや秩序ある退却ではすまなくなってきた。態勢を立て直した日本軍は全力をあげて追撃に移った。ロシア軍の士気はみるみる低下していった。退却が遅れた部隊はこの追撃戦で敗れ、見るも無残な敗走をすることになった。降伏する兵が続出した。一度崩壊を始めた軍を立て直すのは不可能に近い。ロシア軍は敗走に敗走を重ね、多大な被害を出した。クロパトキンが想定した退却地点・鉄嶺も捨てて逃走してしまったのである。
この奉天の決戦における日本軍の死傷者は五万人を超えた。日露戦争中、最大の数である。奉天決戦に参戦した日本陸軍の総兵力25万のうち、20%が失われてしまった。ロシア軍の被害は追撃戦でふくれ上がり、15、16万人(うち、捕虜3万人ほど)と、日本軍の3倍以上となった。ロシア軍の被害は約50%にも及んだのである。
日露戦争の陸戦は、この奉天の戦いで事実上終結した。日本軍は、奉天の戦いで勝ったと言えるが、それは最後の力を振り絞った結果だった。日本とロシアでは、軍隊の規模の桁が違う。奉天の戦いの後、ロシア軍は総司令官・クロパトキンを第一軍司令官に降ろして、代わりにこれまで第一軍の司令官を務めていたリネウィッチ大将を総司令官に任命した。リネウィッチは、まず乱れた軍規を厳しく取り締まり、敗走中のどさくさに紛れて軍律違反を犯した兵は銃殺処分した。そして、形勢挽回のために本国からの兵力の増強を待ち、その戦力は日に日に回復していった。一方の日本軍は、戦力回復がほとんどできなかった。もう控えの現役兵士はおらず、陸軍士官学校を出た将校達も多くが戦死したため、部隊の戦闘能力は著しく低下していた。まさに限界だった。しかし、日本国内では勝利という部分のみが誇大に強調され、この勢いでロシア帝都・ぺテルベルグまで攻め込むべき、というおよそ現実では考えられない報道がされており、これが一般国民の思想になっていたようだ。困ったことに、政府までもがこの風潮に飲まれて講和の準備を怠っていた。総参謀長の児玉源太郎は東京に一時帰国し、講和条約の話を進めるよう、要人を説得した。政府はアメリカ大統領・セオドア・ルーズベルトにロシアとの講和の仲介を頼んだ。しかし、ロシア側は敗戦を認めなかった。ロシア側が講和会議に臨むのは、5月27日の日本海海戦でバルティック艦隊が大敗北を喫してからである。

ポーツマスで講和会議が進んでいる間も、満州では小部隊同士の小競り合いが頻発していた。好古の騎兵斥候は、ロシアの騎兵斥候と騎馬戦になると、兵の体格も馬の馬格も小さいために負けることが多く、捕虜になる者が増えた。それにつれて、騎兵斥候があちこちでロシア軍と遭遇してしまい、一部隊全員が帰ってこないという事態まで発生した。どうやら、捕虜になった騎兵が、ロシア軍の尋問に答えて機密を漏らしているらしい。日本では、捕虜になることを恥と考える傾向が強い。そのため、捕虜になってしまった場合にどうするかという教育がほとんどされていなかった。そのため、ロシア側の尋問にあっさり答えてしまった、という状況のようである。好古は捕虜になっても、尋問に対して何でもかんでも答える義務はない、ということを教えるために、部下達に訓示を出した。
好古は騎兵の持つ攻撃力を活かすために、騎兵を集団で用いることを昔から強調していたが、終戦直前になって騎兵26個中隊が好古の指揮下に入ることになった。この騎兵部隊は「秋山騎兵旅団」と呼ばれた。好古が所属する第三軍の、若い参謀達は「新編成の騎兵旅団を一度も使わずに終戦を迎えるのはもったいない。一度使ってみないか。」と好古に勧めた。驚くべきことに、この参謀達は司令官の乃木希典には、この事を一言も相談していなかったらしい。実は、旅順攻略戦の頃から、第三軍の司令部軍規がゆるんでいるとの評判があった。さて、この話を受けた好古にも、満州の野を舞台に大騎兵隊を指揮する、という夢がまるっきりないわけではないようだったが、この頃は既にポーツマス講和条約は成立が確定していた。「武をけがすものだ」と言って、断った。
10月21日
ポーツマス条約が批准され、秋山騎兵旅団も解散となった。解散にあたり、好古はそれぞれの生活に戻る兵士たちに教訓歌のようなものを残した。この教訓歌は兵士達に処世術を諭したようなもので、
「別れに臨んで教へ草、先づ筆とりて概略を」
という七語調の文から始まり、
「自労自活は天の道、卑しむべきは無為徒食、一夫一婦は人道ぞ」
と説くものであった。
この後、戦地を離れて凱旋の順番を待つことになった。ある夜、副官の清岡大尉に好古はふと
「ロシアはこれから社会主義の国になるだろうな」
と話したらしい。特に明確な根拠はないようだが、
「ロシア軍は国民の軍隊ではないからだ」
と言ったらしい。好古は「ナポレオンは国民の軍を率いたから強かった」と普段からよく言っていたらしい。日本も国民の軍だから強い。それに対して、ロシア軍は皇帝の私物である。皇帝の私物が傷ついてもロシア人に傷はつかない。かえって、皇帝権力の象徴だった軍隊が外国との戦争に敗れることで、社会主義者による革命が起こるかもしれない、というのがこの話の根拠にあるようだ。好古は天皇についてあまり多くは語っていないが、彼の認識では当時の日本軍は「国民の軍」であり、昭和期のような「天皇の軍」という思想は薄かったようだ。これは好古個人に限った話ではなく、明治時代に生きた人々に共通した思想だったように思われる。ちなみに、好古はフランス留学の頃に社会主義者と行きつけの飲み屋で知り合った。「決して悪いものではなく、いいところもある」と、この時清岡大尉にも話した。実際、彼の晩年に共産党の問題が大きくなってきたときも「悪意をもって共産党を考えていては何も得ることはない」と話したりしていた。
明治39年(1906年)2月9日
好古が日本本土に帰国。出征から約1年と10ヶ月の時が経過していた。

その後の好古

戦後、好古は近衛師団長などの陸軍の要職を歴任し、大正5年に陸軍大将となった。その後、大正12年に予備役に入った。彼は晩年も他の軍人とは異なる人生を歩んだ。従二位勲一等功二級陸軍大将という高官の地位を得た好古であったが、彼の東京の家は小さな借家のままであった。大正13年には故郷・松山の有力者に請われて松山に帰り、私立・北予中学校の校長を務めた。元陸軍大将は黙々と6年間、校長の勤務を続けた。好古は馬に乗って学校に通ったらしい。威風堂々とした姿であったという。東京で開かれる中学校長会議にも欠かさず出席した。退役後、地方の中学校長となる道を選んだ高級軍人は、彼一人しかいない。しかし、考えてみれば好古の晩年は、彼本来の姿だったかもしれない。元々彼は教師となって身を立てようとした。それが縁あって陸軍士官学校に入り、日本騎兵の育成を担当することになったため、彼は軍人として、騎兵養成者としての道を懸命に歩み、日清・日露戦争を戦ってきたのである。最初から軍人志望でなかった好古にとって、この晩年は彼にとってごく自然な選択だったのかもしれない。
昭和5年4月。校長を辞任して東京へ帰り、それから間もなく病気になってしまった。病気は糖尿病と脱疽だっそで、左足の痛みが特に激しかったらしい。陸軍軍医学校に入院することになった。
左足切断という手術を受けたが、好古の体は既に蝕まれていた。手術後、昏睡状態が続いた。同郷の軍人で、日露戦争にも歩兵第二十一連隊長(階級は少佐)として第二軍所属で戦った白川義則しらかわよしのりが見舞いに来た時は、高熱にうなされていたらしい。臨終間際になると「鉄嶺」という単語がよく出た。彼の精神は満州の戦場にあるようだった。「奉天へ・・・」が最後の言葉となった。時に昭和5年(1930年)11月4日午後7時10分。享年72歳。

道後温泉付近の墓地にある好古の墓。陸軍の高官にまで登りつめた人間にしては、だいぶこじんまりとしている。
墓があればそれでいい。豪華なものなど無用である。
そんな言葉が聞こえそうだ。


<好古挿話 その六>
ロシア兵士にも知られた名前

大房身の戦いのときの話。好古はいつもの通り、司令部の部屋で酒を飲みながら地図を広げて作戦を練っていた。そこに、なんとロシア兵が一人入ってきたのである。
「なんじゃ、オマイ」
ロシア軍が司令部まで突入して来る様子はなかったが、とっさに好古は拳銃に手を伸ばした。が、それよりも先にロシア兵の方が仰天し、叫び声を上げて逃げてしまった。このロシア兵はペトロ・ワシリーウィッチといい、数日前に投降して捕虜となったロシア兵だった。捕虜は日本本土の捕虜収容所に送られるのだが、そのための便がなかったため、陣中に滞在していたのである。副官の清岡大尉は、いつも好古の身の回りの世話(酒の調達と、タバコの吸殻捨て)をしている綿貫当番兵が他へ行っていていなかったため、代わりにこの捕虜を当番兵に使ったらしい。清岡大尉はロシア語が使えた。好古を見て逃げ出したペトロは、清岡大尉のもとに駆け込み「今、恐ろしい人を見た」と訴えた。話を聞くと、好古のことらしい。「その人が秋山将軍だ」と教えてやると、ペトロは震え上がり「こんな恐ろしいところには居たくない、早くマツヤマへ送ってください」と頼んだという。好古の名は、ロシア兵の間にも知られていたらしく、それもかなり恐ろしい将軍とされていたようだ。
ちなみに「マツヤマ」とは好古の故郷の松山のことで、捕虜収容所が置かれていた。収容所は他にもあったが松山が特に有名で、ここでは捕虜が大切に扱われた。いや、優遇されたと言った方が正しいかもしれない。国際法の優等生だった日本は捕虜の扱い方にも注意を払い、彼らは松山の町を自由に歩くことが許可されただけでなく、温泉にも出かけることができたらしい。また、町の人々も捕虜には親切で、捕虜虐待・侮辱のような事件は一件たりともなかったという。松山の捕虜収容所は世界的に有名になり、前線のロシア兵にも広まり、「マツヤマ」が投降するという言葉になって「マツヤマ、マツヤマ!」と叫んで日本軍陣地に駆け込んできたロシア兵が多数出たらしい。ちなみに、この「マツヤマ」に収容されたロシア兵はなんと6000人もいたという。


<参考図書>
・「坂の上の雲」(司馬遼太郎著 文芸春秋社)拙庵歴史小説紹介の間にあり
・「激闘!日露戦争」(宝島社)
・「天津軍司令部」(古野直也著 国書刊行会)

<資料館・史跡>
・愛媛県立歴史民俗資料館
・秋山兄弟生家跡(松山市)
・秋山兄弟銅像(松山市)

最後に
「騎馬将軍 秋山好古」を最後まで読んでいただき、まことにありがとうございます。秋山好古は戦国武将などに比べると、歴史教科書などにも登場しないため、知名度はあまり高くありませんが、彼の業績と精神は日本が世界に誇れる「侍」として相応しい人物なのではないかと思います。少しでも、秋山好古という、明治時代に生きた「侍」を知っていただければ幸いです。
ここに記載された内容は、上記の参考図書、資料館、史跡などで得た知識を基にしています。自分自身で校正は行いましたが、表現がおかしいところや、誤字脱字など発見されましたらこちらまでご連絡いただければ幸いであります。ご意見・ご感想などもいただければ、なお嬉しいです。


・前ページへ

・侍列伝トップへ戻る