1000円札に描かれている夏目漱石は小説家。
10000円札に描かれている福沢諭吉は「学問のすすめ」を著した慶應義塾大学の創始者。
それでは、5000円札に描かれている新渡戸稲造はどんな人?
すぐに答えが返せる人は、意外に少ないようです。
そんな彼は、拙庵でいつか必ず採り上げようと思っていた人物でした。
新渡戸稲造は幕末に武士の家に生まれ、維新後は海外で研究活動を行い、帰国後は、青年の教育にあたった人でした。そして、「武士道」を著して世界に日本の侍の生き様と考え方を紹介したことで有名な人です。彼が著した「武士道」は欧米で好んで読まれ、英語のみならずポーランド、ドイツ、ノルウェー、スペイン、ロシア、イタリアなど、多くの国の言語に翻訳されてベストセラーになったそうです。つまり、近代以降の世界各国が認識した「サムライ」「武士」の姿は、新渡戸「武士道」に大きく影響された、と考えることができるわけです。
彼が世界に紹介した武士道とは、どのようなものだったのか?
こちらでは、彼が伝えた武士道を紹介していきたいと思います。
まずは著者である新渡戸稲造について簡単に。
「文久2年(1862年)、南部藩士、新渡戸十次郎の三男として誕生。幼少期は武士の家の子の教育を受けてきた。札幌農学校(北海道大学の前身)で学び、アメリカ・ドイツに渡って農政学等を研究。帰国後、東京帝大教授、東京女子大学長などを務めて、青年の教育に情熱を注いだ。」
そんな彼が、「武士道」を著すきっかけとなった事件が、その冒頭にこのように記されております。
『1889年頃、ベルギーの法学者・ラヴレー氏の家で歓待を受けている時に宗教の話題になった。ラヴレー氏に「あなたがたの学校には宗教教育というものがないのですか?」と尋ねられ、ないと答えると「宗教なしで、いったいどのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか?」と繰り返された。私はその質問に愕然とし、即答できなかった。』
その後、彼は現代日本(現在から見れば「近代日本」だろうか)の道徳観念は封建制と武士道が根幹を成していることに気付き、整理したものを書物という形にして世に出すことになったそうです。
原著は1898年、アメリカ滞在中に英文で書かれたもの。1900年にフィラデルフィア(アメリカの最初の首都)の出版社から刊行され、1905年には増訂版が出されたそうです。日本でも、フィラデルフィア版と時を同じくして英文版が出版されました。この版はほとんど残っていない模様ですが、国会図書館に2,3冊所蔵されているそうです。
その後、日本語訳されたものがいくつか出版されましたが、一番有名な版は、昭和13年(1938年)に岩波文庫版として刊行された矢内原忠雄訳の「武士道」とのことです。新渡戸自身が日本語で著した版は存在しないようです。元々、諸外国に日本独自の道徳概念を紹介することが目的であったようなので、日本語では著さなかったのかもしれません。そういう目的であったため、本文中には外国の歴史上の人物・故事を例に出して説明したり、キリスト教と比較するなど、日本人にはわかりにくい例えが目立つのも事実です。なので、拙者自身よくわかっていないところもあります(^_^;)
以下に続く文章は、拙者が読み取ったことをまとめたものですので、参考図書や原著の引用部分はあまりありません。
「読み違えている」「この解釈はおかしい」
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「武士道」を一言で表現するならば、「騎士道の規律」であり、「高貴な身分に付随する義務」と言える。武士が守るべきものであり、道徳の作法である。「武士道」は成文化された法律ではない。その多くは、有名な武士の手による格言で示されていたり、長い歴史を経て口伝で伝えられてきた。それだけに、「武士道」は実際の武士の行動に大きな拘束力を持ち、人々の心に深く大きく刻まれ、やがて一つの「道徳」を作り出していった。ある有能な武士が一人で考え出したものではなく、ある卓抜した武士の生涯を投影したものでもない。長い時を経て、武士達が作り出してきた産物なのである。
武士道がいつ確立されたのか、時と場所を明確に指定することはできないが、武士道が自覚されたのは封建制の時代であった。つまり、封建制の始まりと武士道の始まりは一致すると考えられる。日本で封建制が確立されたのは、源頼朝が武家政権を開いた時期であるが、封建的な社会的要素はそれ以前から存在していた。よって、武士道の要素も同様に、それ以前から存在していたと考えられる。武士道の源流を生み出した階級「侍」は、戦闘によってその特権的な地位を得た。長い戦いの歴史の中で、弱い者は淘汰され、強い者が生き残った。彼らが地位と名誉を獲得し、それに伴う義務を帯びるようになると、彼らに共通した行動規律が必要になってきた。その原点は、戦闘における「フェア・プレイ」である。子供じみた幼稚な考えであると、大人は笑うかもしれないが、これこそ壮大な倫理体系の「かなめの石」であろう。
戦闘は野蛮で残虐な行為を含んでいるが、「臆病者」「卑怯者」という言葉は、少年のように健全で単純な性質の人間にとっては、この上ない侮辱であった。少年達はこの観念をよりどころとして、人生を歩み始めるのである。武士道も同様であった。しかし、時代が変化するに従って彼らの行動は、より高次の権威と、より道理にかなった判断に基づいたものを求められるようになった。そのため、武士道の源流は戦闘のみならず、いくつかの拠り所を持っていたのである。
武士道の拠り所の一つは仏教である。仏教は、運命に対する信頼、不可避なものへの静かな服従、禁欲的な平静さ、生への侮蔑と死に対する親近感を与えた。
もう一つは神道である。神道は、主君に対する忠誠、先祖への崇敬、孝心などをもたらした。
道徳的な教義に関しては、儒教が豊かな源泉となった。孔子の政治道徳の格言の数々は、支配階級であった武士にとってふさわしいものであり、不可欠なものであった。
次いで、孟子の思想も大きな影響を及ぼした。その人民主権的な理論は、思いやりのある武士たちに特に好まれた。孟子の理論は既存の社会秩序の破壊を招くものであるとして、その書物は長い間禁書とされてきたが、この言葉と思想は武士の心の中に永遠に住みつくようになった。
「論語読みの論語知らず」という言葉がある。孔子の言葉を振り回すだけの人を嘲っているものである。武士道では、知性とは道徳的感情に従うものであると考えられていた。つまり、知識とは、人生における知識適用行為と同一のものなのである。知識とは、本来は知恵を得るための手段なのである。どんなに豊富な知識を持っていようとも、それが彼の行動に結びつかなければ、何の意味もないものであった。この思想は、中国の思想家・王陽明が何度も説いた「知行合一」の精神に詳しく解説されている。
このように、武士道の源泉となったものはいくつか存在するが、武士道が吸収したものはわりと少なく、単純なものであった。武士の先祖達は、健全ではあっても洗練されているとは言いがたい気質の持ち主であったが、彼らは上記の思想や断片的な教訓を糧として彼らの精神に取り込み、それぞれの時代に要請された刺激に応じて、独得の「男らしさ」の型を作りあげていったのである。
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