「義」とは、サムライの中でも最も厳しい規律である。裏取引や不正行為は、武士道が最も忌み嫌うものである。幕末の尊攘派の武士・真木和泉守(まき いずみのかみ:筑後久留米水天宮の祠官であったが、尊王攘夷論の影響を受け、脱藩して尊攘活動の指導者となる。蛤御門の変に敗れて自刃)は、義について以下のように語っている。
「士の重んずることは節義なり。節義はたとへていはば、人の体に骨ある如し。(中略)されば人は才能ありても学問ありても、節義なければ世に立つことを得ず。節義あれば不骨不調法にても士たるだけのことには事かかぬなり。」
また、孟子は「仁は人の安宅なり、義は人の正路なり」と言った。つまり「義」とは、人が歩むべき正しい、真っ直ぐな、狭い道なのである。封建制の末期、長く続いた泰平の世が武士に余暇をもたらし、悪辣な陰謀とまっかな嘘がまかり通っていた時代に、主君の仇を報じた47人の侍がいた。私たちが受けた大衆教育では、彼らは義士であり、その素直で正直で男らしい徳行は最も光輝く宝の珠であった。
しかし、「義」はしばしば歪曲されて大衆に受け入れられた。それは「義理」という。「義理」とは「正義の道理」なのであるが、それは人間社会が作り上げた産物といえるだろう。人間が作り上げた慣習の前に、自然な情愛が引っ込まなければならない社会で生まれるものが、義理だと思うのである。この人為性のために、「義理」は時代と共にあれこれと物事を説明し、ある行為を是認するために用いられた。人間の自然な感情に反する行為でも、それを社会が求めているのならば、その行為を正当化する道具として「義理」があらゆる場所で用いられたのである。もし「武士道」が、鋭敏で正当な勇気と、果敢と忍耐の感性を持っていなかったとすれば、「義理」は臆病の温床に成り下がっていただろう。
孔子は論語の中で「義を見てせざるは勇なきなり」と言っている。肯定的に言い換えると「勇気とは正しいことをすることである」となる。つまり、「勇」は「義」によって発動されるものである。水戸光圀(黄門)は、こう述べている。
「一命を軽んずるは士の職分なれば、さして珍しからざる事にて候、血気の勇は盗賊も之を致すものなり。侍の侍たる所以は其場所を退いて忠節に成る事もあり。其場所にて討死して忠節に成る事もあり。之を死すべき時に死し、生くべき時に生くといふなり。」
つまり、あらゆる危険を冒して死地に飛び込むだけでは「匹夫の勇」であり、武士に求められる「大義の勇」とは別物なのである。
勇とは、心の穏やかな平静さによって表現される。勇猛果敢な行為が動的表現であるとすれば、落ち着きが静的表現となる。真に勇気のある人は、常に落ち着いており、何事によっても心の平静さを失うことはない。危険や死を目前にしても平静さを保つ人、詩を吟じる人は尊敬される。その心の広さ(余裕という)が、その人の器の大きさなのである。優れた武将として名高い太田道灌(おおた どうかん:室町時代の関東の武将。主家である扇ヶ谷上杉家を支えて武威を奮った。)は、讒言によって暗殺された時も、槍を突き刺した刺客が投げかけた上の句を受けて、息も絶え絶えの状態で下の句を続けたという挿話がよく知られている。
同様の例は他にもある。戦国時代、武田信玄と上杉謙信という二人の戦国大名が激しく争っていた。ある時、他国が信玄の領地に塩が入らないように経済封鎖を行い、信玄が窮地に陥った。この信玄を救ったのが、宿敵であるはずの謙信であった。彼は「貴殿と争うのは弓矢であって、米塩ではない。今後は我が国から塩を取り給え。」と手紙を寄せ、自国で取れた塩を商人の手によって、信玄の領地にもたらしたのである。
「勇」がこの段階まで高まると、価値ある人物のみを平時に友とし、そのような人物を戦時の敵として求めるのである。「勇」には、相手と競い合うようスポーツのような要素を含んでいる。そのため、合戦とは単なる凄惨な殺し合いではなく、命を懸けた競争のような要素を含んでおり、戦の最中に歌合戦を始めたり、当意即妙な応対を讃えるなど、凡人には理解しがたい知的な勝負でもあった。
「仁」とは、思いやりの心、憐憫の心である。それは「愛」「寛容」「同情」という言葉でも置き換えられるものである。「仁」は人間の徳の中でも至高のものである。孟子は「不仁にして国を得る者は之有り。不仁にして天下を得る者は未だ之有らざるなり」と言い、「仁」が王者の徳として必要不可欠なものであることを説いた。
「仁」は優しい母のような徳である。だから、人は情に流されやすい。しかし、侍にとって「仁」があり過ぎることは歓迎できないことだった。伊達政宗は「義に過ぐれば固くなる。仁に過ぐれば弱くなる」と言い、慈愛の感情に流されすぎることを戒めている。「武士の情け」とは、盲目的な衝動ではなく、ある心の状態を表現しているものでもない。生殺与奪の力を背景に持ち、正義に対する適切な配慮を含んでいるものであった。一の谷の戦いで、熊谷直実が自分の子と同年代の若き武者平敦盛を泣く泣く斬る場面は、その代表例である。歴史家は、この話は作り話めいていると言うが、か弱いもの、敗れた者への仁は侍にふさわしいものとして奨励され、血なまぐさい武勇伝を彩る特質であった。
武士には詩歌音曲をたしなむことが奨励された。合戦におもむく武士が歌を詠んだり、討死した武者の鎧や衣服から辞世の歌を記した書付が見つかることは珍しいことではない。日本では、音楽や書に対する親しみが、「仁」の心、すなわち他人に対する思いやりの気持ちを育てた。
「礼」とは
長い苦難に耐え、親切で人をむやみに羨まず、自慢せず、思い上がらない。自己自身の利益を求めず、容易に人に動かされず、およそ悪事というものをたくらまない
ということである。「礼」には、相手を敬う気持ちを目に見える形で表現することが求められた。それは、社会的な地位を当然のこととして尊重することを含んでいる。言い換えれば、「礼」は社交上必要不可欠なものとして考えられていた。品性の良さを失いたくない、という思いから発せられたならば、それは貧弱な徳であると言えるだろう。ただし、「礼」も度が過ぎることは歓迎されないことであった。伊達政宗は「度を越えた礼は、もはやまやかしである。」と言い、仰々しいだけで心のこもっていない「礼」を軽視した。「礼」は細分化され、挨拶や座り方なども細かく決められており、特殊な場合は礼の専門家によって指導されることもあった。西洋人の一部は、これらの決められた行儀作法を、自由な発想を奪うもの、として批判している。確かにそのような面があることは私も認めざるを得ない。しかし、「礼」を厳しく遵守する背景には道徳的な訓練が存在しているのである。
代表的な例は茶道である。茶道は喫茶の行儀作法以上のものである。それは芸術であり、詩であり、リズムを作っている理路整然とした動作である。そして、精神修養の実践方式なのである。礼とは動作に優雅さを添えるものであるが、礼に乗っ取った動作は礼儀のほんの一部分に過ぎない。かつて孔子は「音が音楽の一要素であるのと同様に、見せかけ上の作法は、本当の礼儀作法の一部に過ぎない。」と言った。動作も重要なものであるが、それだけでは「礼」ではない。「礼」に必要な条件とは、泣いている人と共に泣き、喜びにある人とともに喜ぶことである。「礼」とは慈愛と謙遜から生じ、他人に対する優しい気持ちによってものごとを行われるので、いつも優美な感受性として表れる。その感受性は、日常生活の些細な動作の中に顔を出すのである。
「誠」とは「言」と「成」という表意文字の組み合わせである。武士にとって、嘘をつくことやごまかしなどは、臆病なものと蔑視されるべきものであった。商人や農民よりも社会的身分が高い武士には、より高い水準の「誠」が求められていると考えていた。「武士に二言はない」という有名な言葉があるが、ドイツでも同様の意味の言葉がある。「Ritterwort(リッターヴォルト):騎士の言葉」(Ritterとは騎士。wortは言葉)である。この言葉には、嘘偽りがない言葉、という意味も持っている。断言した武士の言葉は、真実であるということを十分に保障するものであった。「二言」のために、壮絶な最期を遂げた武士の話は、いくつも存在している。
そのため、武士同士の約束はたいてい証文などはとらなかった。言葉に嘘がない以上、改めて証文をとる必要がないからである。むしろ、証文を書かされることは武士の体面に関わることである、と考えられた。「誓うことなかれ」というキリストの教えを、多くのキリスト教徒日常茶飯事に破り続ける一方で、真のサムライは「誠」に対して並々ならない敬意を払っていたのである。
しかし、武士が「誓いを立てる」という行為を一切行わなかったわけではない。八百万の神々に誓いを立てることもあれば、誓いを補強するために血判を押すこともあった。ただし、彼らの誓いは決してふざけた形式、大げさな祈りなどには堕落しなかった。
キリスト教世界と異なるところはもう一点ある。武士にとって嘘をつくことは、罪悪というよりも「弱さ」の表れであると考えられたことである。そして、「弱い」ということは武士にとってたいへん不名誉なことであった。言い換えるなら、「誠」がない武士は不名誉な武士であり、「誠」がある武士こそが名誉ある武士、と言えるのである。
「名誉」は、幼児の頃から教え込まれるであり、侍の特色の一つである。武士の子供は「人に笑われるぞ」「体面を汚すなよ」「恥ずかしくないのか」という言葉で、その振る舞いを矯正されてきた。「名誉」という言葉自体はあまり使われなかったが、その意味は「名」「面目」「外聞」などの言葉で表現されてきた。新井白石は
「不名誉は樹の切り傷の如く、時はこれを消さず、かえってそれを大ならしむるのみ」
と言った。名誉は、誠と同様に、武士階級の特権を支える精神的な支柱の一つであった。
しかし、武士の名誉の名の下に、些細な事件や侮辱されたという妄想から、悲惨な刃傷事件が発生することも多かった。その多くは、武士という階級に重きを置くための創作であったが、武士の「名誉」に端を発する事件は数多く起きていた。そうなると、名誉はかえって武士を残忍にさせるものに成りかねなかったが、それは「寛容」と「忍耐」で補足されていった。些細なことで腹を立てたりすることは「短気」という言葉で嘲笑される素となったのである。寛容、忍耐の境地に達した人は稀であるが、その一人の西郷隆盛は
「道は天地自然の物にして、人はこれを行なふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也」
と、教訓を残している。
忠義の観念は、個人主義思想の西洋と武士道が育った日本では幾分異なっている。西洋の場合、父と子、夫と妻という家族関係の間柄にも、それぞれ個別の利害関係があることを認めていた。この思想の下では、人が他に対して負っている義務は著しく軽減されている。個々に権利が認められると同時に、責任が負わされるためである。武士道の場合、一族の利害と一族を形成する個々の利害は一体のものであった。この、侍の一族による忠義が、武士の忠誠心に最も重みを帯びさせているのである。ある個人に対する忠誠心は、侍に限ったものではなく、あらゆる種類の人々に存在するものである。武士道では、個人よりもまず国が存在する。つまり、個人は国を担う構成成分として生まれてくる、と考えているのである。同様の考え方は、古代ギリシャの高名な哲学者・アリストテレスや現代の社会学者の一部にも見られるものである。換言すれば、個人は国家のために生き、そして死なねばならないのである。同じく、古代ギリシャにおいて先駆の哲学者であったソクラテスは、国家あるいは法律に次のように言わしめた。
「汝は我(国家・法律)が下に生まれ、養われ、かつ教育されたのであるのに、汝と汝の祖先も我々の子および召使でない、ということを汝はあえて言うか」
武士道が抱えていた思想は、西洋においてもそれほど突飛な思想とは言えない。ただ、武士道の場合、国家や法律に相当するものは主君という人間の人格であった。
グリフィスは「中国では、儒教の倫理は父母への従順を人間の第一の責務としたが、日本では忠義が優先された」と言ったが、正しい表現であろう。「忠」と「孝」の板ばさみに合った時、多くの侍は「忠」を選んだ。また、侍の妻女たちは、忠義のためには自分の息子を諦める覚悟ができていたのである。また、そのような逸話は数多く日本に存在しているのである。
真の忠義とは何であろうか?武士道は主君のために生き、そして死なねばならない。しかし、主君の気まぐれや突発的な思いつきなどの犠牲になることについては、武士道は厳しい評価を下した。無節操に主君に媚を売ってへつらい、主君の機嫌をとろうとする者は「佞臣」と評された。また、奴隷のように追従するばかりで、主君に従うだけの者は「寵臣」と評された。家臣がとるべき忠節とは、主君が進むべき正しい道を説き聞かせることにある。
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