武士の教育にあたって、まず第一に重要とされたことは、その子の品性を高めることであった。武士の教育科目には、剣術、弓術、柔術(やわら)、乗馬、槍術、戦略戦術、書、道徳、文学、儒学、歴史などで構成されていたが、これらを学ぶことによって身についた知識などは第二義的なものとして考えられていた。本来、侍とは行動の人である。学問は、侍がその職業上必要な範囲に限って利用された。それ以上の学問は、侍ではなく学者の仕事であった。特に儒学は、その子の品性を高めるための実践的な補助手段として利用されたものであり、決して儒学者を養成するためではない。
宗教や神学においても、それを究めるのは僧侶や神官の仕事であり、侍は勇気を鼓舞するためにこれらを利用した。ある英国の詩人は「人間を救うのは教義ではない。教義を正当化するものは人間である」と言ったが、多くの武士はこれに賛同するであろう。
武士の教育科目の中で、軍事上必要不可欠であると考えているものが欠けている。それは「算術」であった。出陣、合戦、恩賞、知行など、侍の生活の中にも数の知識は必要なものであったのにも関わらずである。その理由は、封建時代の戦闘には、必ずしも科学的な正確さは必要ではなかった、ということもあるが、最たる理由は、武士の教育上、数の概念を育てることは甚だ都合が悪いことであったから、である。
武士道では、損得勘定で物事を考えない。金銭そのものさえ忌み嫌い、むしろ足りないことを誇りに感じていた。お金を貯めることもせず、理財に長けることなどは嫌うべきものであった。そのような手段は不正利得と考えられていた。もちろん、武士の生活にも組織にも金銭は必要なものであった。そのため、金銭計算などは身分の低い武士の仕事とされた。江戸時代の多くの藩でも、藩財政は小身の武士か僧侶に任されていた。有能な武士は、金銭の重要性を認めてはいたが、金銭の価値を「徳」の境地にまで引き上げることはなかったのである。江戸時代の藩では、こぞって質素倹約が奨励されたが、それは理財のためではなく、節制の訓練のためである。豪奢な生活は、人格の形成に大きな影響を及ぼす最大の脅威であると考えられていた。そのため、武士には厳格で質素な生活が要求されたのである。
現代では、頭脳訓練は主に数学の勉強で行っているが、当時は文学の解釈や道義的な議論がその役割を担っていた。しかし、上記の通り、教育の目的はあくまで品性を高めることにあったため、教師という職業はできた人格を求められ、ある意味では聖職者的な色を帯びてきた。そのため、教師は武士の見本として尊敬されてきたのである。武士の本性は、算術では計算できない名誉を重んじることに特質がある。品性を育むという精神的な価値に関わる仕事の報酬は、金銭で酬いられるべきことではなかった。無価値だからではない。尊すぎて、価値がはかれないからである。武士は、無償・無報酬の仕事を実践していたのであった。ただし、弟子たちが師匠にある程度の金銭や品物を持参するという慣習は認められていた。清貧な教師たちは貧乏であったので、この贈り物を喜んで受け取った。彼らは自ら働くには威厳があり過ぎ、物乞いをするには自尊心が高すぎた。貧しい生活にも高貴な精神で耐え抜く彼らの姿は、鍛錬を重ねる自制心を持った生きた手本であり、その自制心は侍に必要とされたものであった。
武士にとって、自分の感情を顔に表すことは、男らしくないことだと考えられた。武士が鍛錬してきた勇気、礼の教えは、自分の苦しみ・辛さを表情に出すことによって、他人の平穏をかき乱すことがないように、という他人への配慮のためであった。感情を表情に出さないことは「喜怒を色に表さず」という言葉で賞賛の対象となったのである。
ある青年が「アメリカ人の夫は人前で妻に口づけをし、私室で打つ。日本人の夫は人前で妻を打ち、私室では口づけをする」と言ったが、この言葉には真実が含まれているだろう。
切腹は、武士階級のみに通じる一つの法制度であり、死の儀式であった。それは、自分の罪を償って過去を謝罪するためであったり、友や一族を救うためであったり、武士が忌み嫌う不名誉の烙印を押されることから免れるためであったり、自分の誠実さを証明するためであったりと、目的は様々であった。なぜ「腹」を切るのかというと、古い解剖学では、霊魂と愛情は腹に宿ると考えられていたためである。その考えは日本に限らったものではない。古代ギリシャでも同様であり、現代フランス語でも「entraile(腹部)」という言葉が、「思いやり」「愛情」という意味でも使われているのである。
切腹は武士にとって、栄光ある死であった。そのため、「名誉」を得ることが計算されたうえで、多くの若い侍が死を急ぐように切腹して果てた事実は否めない。しかし、真の侍は、いたずらに死に急ぐことは卑怯なことと同じだと考えていた。戦国時代の中国地方に山中鹿之助幸盛(やまなか しかのすけ ゆきもり)という武将がいた。彼の主家は戦に敗れて滅んだが、彼は主家の再興を志してたいへんな苦境を戦い抜いてきた。その彼は、下記の歌を詠んだという。
憂き事の なほこの上に 積れかし 限りある身の 力ためさん
ありとあらゆる困難と苦境に、忍耐と高潔な心を以って立ち向かうことを武士道は教えている。そうすることで初めて真の名誉を得ることができるのである。真の名誉は、天から自分に与えられた使命をまっとうすることである。そのために死すことは不名誉なことではないが、天が与えようとするものから逃げようとすることは卑怯なことであった。17世紀、ある高名な僧侶は以下のように言っている。
「平生何程口巧者に言うとも、死にたることのなき侍は、まさかの時に逃げ隠れするものなり」
「一たび心の中にて死したる者には、真田の槍も為朝の矢も透らず」
次に、切腹の姉妹関係といってもいい制度「仇討ち」について考えてみよう。「仇討ち」は「復讐」と言い換えることができる。現代のように刑事裁判所がない時代においては、殺人は罪ではなかった。殺人を防ぎ、社会秩序を保っていたのは、被害者の縁者による復讐だけであっただろう。日本の場合、「親の仇」と「主君の仇」が、仇討ちの中でも最も上位に位置していた。
復讐には、復讐者の正義感を満足させる「もの」がある。それは、死すべき理由のない者の命を奪った行為を悪とみなし、被害者の血肉を受け継いだ一族が殺人者に制裁を加えるという、自分の行為を正当化できるわりと単純な論理が動機となるからである。そういう意味では、この動機は人間の中に存在する普通の感覚、言うなれば人間の常識といえるだろう。この人間の常識が、武士道に仇討ちという制度を作らせたのである。普通の「定め」に従っていては裁きができないような事件でも、「仇討ち」という手段に訴えることができた。
「忠臣蔵」の物語で知られる、江戸時代中期の47名の赤穂浪士の仇討ちの話は、現代の日本でも多くの人々の感動を呼んでいる。47士の主君・浅野内匠頭長矩(あさの たくみのかみ ながのり)が切腹を申し付けられた時、控訴できる上級法廷は存在せず、十分な取調べを受けることもできずに、その命を散らした。そのため、忠義あふれる彼の家臣たちは、唯一の最高法廷とでも言うべき「仇討ち」に訴え出ることしか道は残されていなかった。仇討ちを果たした後、47士は一般の定めによって有罪とされ、切腹を命じられた。(管理人注:実際に切腹を命じられたのは46名。詳細はこちら)しかし、一般大衆は彼らに対して別の判断を下した。彼らが重んじた武士の名誉、主君への忠義の心は、民衆をして彼らに「義士」の称号を与えたのである。
「刀は武士の魂である」という言葉はあまりにも有名である。刀は、武士道の力と武勇の象徴として扱われた。刀を作るのは刀匠と呼ばれる鍛冶屋であるが、刀匠は単なる鍛冶屋ではない。彼らは、仕事を始める前に必ず神に祈りを捧げ、身を清めていた。その作業場は神聖な領域といっても過言ではないだろう。彼らが刀を鍛える作業は、ただの物理的な行為に留まらなかったのである。そのように作られた刀は、持ち主に深く愛され、さらには尊崇の対象にも成り得た。そのため、刀に対する侮辱は持ち主に対する侮辱とみなされ、他人の刀を跨いだりすることは、持ち主に対する大きな侮辱にもなったのである。
このように、武器以上の意味を持った刀に対して、武士道は適切に扱うことを強調している。不当な使用を激しく非難し、やたらと刀を振り回して威を見せる者は、卑怯者、虚勢をはる者として蔑まれた。心が洗練されている武士は、自分の刀を使うべき時をしっかりと心得ていた。また、その時はめったに訪れない稀な場合であることを知っていた。幕末の混乱期に活躍した傑物に勝海舟(かつ かいしゅう)という人物がいた。彼は身分の低い武士であったがその実力を認められ、幕府の要職を歴任した。そのため、多くの暗殺者に命を狙われたが、後に彼はこの頃の様子を回顧録にこう記している。
「私は一人も斬ったことがない。腕の立つ河上彦斎は何人も斬ってきたが、最後は人に斬られて殺された。私が殺されなかったのは、一人の刺客も殺さなかったからだ。」
「負けるが勝ち」「血を流さない勝利こそ最善の勝利」という格言がいくつかある。幾人もの人を斬り続ける道は、真の勝利にはたどり着かないことを意味している。つまり、武士道が求めた究極の理想とは「平和」だったのである。しかし残念なことに、武士は武芸に励むことばかりが優先され、究極の理想について追求することはほとんどなかった。そういう仕事は、僧や道徳家が担っていた。
武士道は男性のために作られたものである。その武士道が求めた女性の理想像は、家庭的であると同時に、男性よりも勇敢で決して負けないという、英雄的なものであった。そのため武家の若い娘は、感情を抑制し、神経を鍛え、薙刀を操って自分を守るために武芸の鍛錬を積んだ。この鍛錬の目的は戦場で戦うためではなく、個人の防衛と家の防衛のためであった。武家の少女達は成年に達すると「懐剣」と呼ばれる短刀を与えられた。その短刀は、彼女達を襲う者に突き刺さるか、あるいは彼女達自身の胸に突き刺さるものであった。多くの場合、懐剣は後者のために用いられた。女性といえども、自害の方法を知らないことは恥とされていたのである。さらに、死の苦しみがどんなに耐え難く苦しいものであっても、亡骸に乱れを見せないために両膝を帯紐でしっかりと結ぶことを知らなければならなかった。
武家の女性には、家を治めることが求められた。彼女達には、音曲・歌舞・読書・文学などの教育が施されたのも、その目的は、普段の生活に彩と優雅さを添えるためであった。父や夫が家庭で憂さを晴らすことができればそれで十分だった。娘としては父のため、妻としては夫のため、母としては息子のために尽くすことが女性の役割であった。男性が忠義を心に、主君と国のために身を捨てることと同様に、女性は夫、家、家族のために自らを犠牲にすることが、たいへん名誉なことであるとされた。自己否定があってこそ、夫を引き立てる「内助の功」が認められたのである。ただし、武士階級の女性の地位が低かったわけではない。女性が男性の奴隷でなかったことは、男性が封建君主の奴隷ではなかったことと同様である。対等に扱われなかったのは事実であるが、それは男女の間に差異が存在するためであり、不平等ではなかった。例えば戦場など、社会的、政治的な存在としては、女性はまったく重んじられることはなかったが、妻として、母としての家庭での存在は完全であった。父や夫が出陣して家を留守にしがちな時は、家の中のことはすべて女性がやりくりしていた。子女の教育もその仕事の一つである。時には、家の防備を取り仕切ることもあった。
日本の結婚観は、キリスト教の結婚観よりもはるかに進んでいると思われる。アングロ・サクソン系の個人主義のもとでは、夫と妻は別の二人の人間である、という考え方から抜けることができない。そのため、二人がいがみ合う時は、それぞれに「権利」が認められることになる。日本の場合、夫と妻は独りでは「半身」の状態であり、夫妻がそろうことで一個の形になると考えている。言わば、お互いがお互いの一部になっているようなものである。社交上、夫が自分の妻を「愚妻」と表現することがあるのは、妻に対して蔑みの言葉を投げているのではなく、自分の半身を謙遜しているからなのである。
このような武士道独特の徳目は、武士階級だけに限られたものではなかった。時と共に、それ以外の階級の日本人たちも武士道に感化されていき、日本の国民性というものが形成されていったのである。
武士は一般庶民を超えた高い階級に置かれていた。かつてどの国でもそうであったように、日本にも厳然とした身分社会が存在していた。その中で、武士は最上位に位置づけられていたのである。江戸時代、日本人の総人口における武士階級の割合は決して多くはなかったが、武士道が生み出した道徳は、その他の階級に属する人間にも大きな影響を与えたのである。農村であれ都会であれ、子供たちは源義経とその忠実な部下である武蔵坊弁慶の物語に傾聴し、勇敢な曾我兄弟の物語に感動し、戦国時代を駆け抜けた織田信長や豊臣秀吉の話に熱中した。幼い女の子であっても、桃太郎の鬼が島征伐のおとぎ話などは夢中で聞いていた。このように、大衆向けの娯楽や教育に登場した題材の多くは武士の物語であったのである。武士は自ら道徳の規範を定め、自らそれを守って模範を示すことで民衆を導いていったのである。「花は桜木、人は武士」という言葉が産まれ、侍は日本民族全体の「美しい理想」となった。「大和魂」は、武士道がもたらしたもの、そのものであった。
日本民族固有の美的感覚に訴えるものの代表に「桜」がある。桜は、古来から日本人が好んで来た花であった。桜を愛でる心は、西洋人がバラの花を愛でる心と通い合えるところはほとんどない。まず、バラには桜が持つ純真さが欠けている。さらに、甘美さの裏にトゲを隠している。桜はその裏にトゲを隠し持っているようなことはない。そして、バラは散ることなく茎についたまま枯れ果てる。それはあたかも生に執着し、死を恐れるかのようである。しかし、桜の花は散る。自然のおもむくままに、散る準備ができている。その淡い色合は華美とは言えないが、そのほのかな香りには飽きることがない。このように美しく、はかなげで、風で散ってしまう桜が育った土地で、武士道が育まれたのもごく自然なことであろう。
上記のように、武士道は「武士」と呼ばれた階級に属した人々により形成され、その心は日本人全体に受け継がれていった。しかし、明治維新によって「武士」階級は姿を消し、武士道が育まれた土壌は消え去ってしまった。では、武士道はこのまま消えてしまうのか?答えは「否」である。欧米諸国から「小さなジャップ」と侮られた日本人は、この数十年間で様変わりした。「小さなジャップ」が弱くか細い存在でないことは、先の日清戦争の勝利で証明されている。日清戦争の勝利は、近代軍備の力とか近代教育の効果とか言われているが、それらは事実の半分にも到達していない。武器だけで戦争に勝てるだろうか。学問だけで勝てるだろうか。何より大切なものは、民族の精神であろう。維新を進め、新たな近代国家「日本」を作り上げた原動力となった人々は、紛れもない「侍」たちであった。
武士道は、一個の独立した道徳として復活することはないかもしれない。はっきりとした教義を持たないからである。しかし、武士道が残してきた徳目の数々は、決して消え去ることはないだろう。西洋諸国の文化の中にも、武士道と同じ徳目が息づいているからだ。
時代が流れ、武士道は城郭・武具と共に崩壊した。既に、その役目を終えたかのようでもある。しかし、不死鳥は自らの灰からのみ甦ることができるのだ。武士道の栄誉は再び息を吹き返し、散った桜の花のように風に運ばれ、その香りは人々を祝福し続けるだろう。
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<参考図書>
・武士道 「人に勝ち、自分に克つ強靭な精神力を鍛える」
(新渡戸稲造著 奈良本辰也訳・解説 三笠書房「知的生きかた文庫」)