赤穂浪士の討ち入り

<概要>

元禄15年(1702年)12月14日深夜。昨年、浅野内匠頭刃傷事件で取り潰しとなった播州赤穂藩の浪士ら47名が、江戸の本所松坂町の吉良邸に討ち入った。浪士らの頭領である大石内蔵助良雄おおいし くらのすけ よしたか:44歳)はこの討ち入りのために十分に準備を進めて事を決行し、激しい戦闘の末に亡君の仇・吉良上野介義央(62歳)の首級を挙げた。
赤穂浪士一行は亡君が葬られている泉岳寺まで赴き、吉良の首級を墓前に捧げた後、幕府に自訴する形で身柄を確保された。なお、47名のうち、寺坂吉右衛門信行てらさか きちえもん のぶゆき:39歳)は途中で姿を消しており、身柄を確保されたのは46名である。


現在の吉良邸跡。広大な敷地の一部が小さな公園となっている。
(2004年2月18日撮影)

<その後の展開>

46名の赤穂浪士の処分については、幕府内部でも助命か処罰かでかなり議論は紛糾した模様。結果は、46名全員の切腹であった。翌年2月4日、46名の赤穂浪士らはそれぞれ身柄を預けられた4つの大名家の江戸屋敷にて、切腹して果てた。
一方の吉良家は、義央の孫で吉良家当主であった吉良左兵衛義周きら さひょうえ よしちか:18歳)が、赤穂浪士討ち入り時の振る舞いが不届きだったという理由で所領没収、お家取り潰しとなり信濃高島の諏訪家へお預けとなった。その後宝永3年(1706年)に病没し、名実共に高家筆頭吉良家は断絶となった。
こうして前年の刃傷事件から始まった赤穂事件は結末を迎えたが、この一連の事件は歌舞伎をはじめ、庶民の間に形を変えながら広まっていき「忠臣蔵」と呼ばれる有名な物語になった。


討ち入りの日付

討ち入りが行われたのは午前3時半頃と言われている。現代の時間では既に日付は変わって12月15日になるのだが、当時は夜明けで日付が変わっていたようなので、討ち入りは12月14日のうちに行われたことになっている。

吉良家取り潰しの謎

吉良義周は討ち入り時の振る舞いが不届きだ、という理由で厳しい処分が下されているが、彼の振る舞いは不届きどころか、実際にはかなりの奮戦をして負傷している。幕府から検分役が吉良邸に到着したときも、負傷した体で彼らを出迎えて挨拶をしたという。不届き、と評価されるような事は見当たらないのだが、どういうわけか幕府はこの時になってから吉良家の取り潰しを決めているのである。
なぜ吉良家は取り潰されたのだろうか?前年の刃傷事件の処分が不評であったため、今回の討ち入りで吉良家に難癖をつけて処分して世間を納得させようとした、と見られることが多いが、実際の裏事情は他にあるような気がしてならない。
ちなみに浅野家は、五代将軍・綱吉が没して六代・家宣が将軍に就任した時の大赦で赦免され、内匠頭の弟・長広は安房に500石の知行を受けて旗本になっている他、島流しされた浪士の遺児たちも赦免されており、内蔵助の三男・大三郎は浅野本家の安芸浅野藩に1500石で召抱えられている。


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