時代区分 | 織豊戦国時代 | 分類区分 | 城・砦 | 旧国名 | 近江 |
現在地 | 滋賀県蒲生郡安土町 |
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国史跡(大正15年10月20日 指定) 特別史跡(昭和27年3月29日 指定) |
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関連人物 | ・織田信長 |
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関連事件 | ・安土城築城開始 ・本能寺の変 |
安土城の歴史
安土(あづち)城は、織田信長が琵琶湖の畔に築城した、壮大かつ荘厳な城でした。その豪壮さは、日本に来ていた宣教師達が「ヨーロッパにはこれほどの城はない」と言ったなどなど、様々な形で現在に伝わっています。
信長が安土城の築城にとりかかったのは天正4年(1576年)。各地から当時最先端の技術を持つ大工などの技術者を集めて、昼夜をわかつことなく工事が進められたと言われています。およそ3年後の天正7年(1579年)5月11日、ついに天守閣が完成。山の頂上に荘厳かつ斬新な五層七階の天主閣(普通は「天守閣」と書きますが、安土城は「天主閣」と書きます)を構え、山の中腹から麓にかけては家臣達の屋敷を備え、山一つを丸ごと要塞化したその姿は、天下人に相応しい見事なものだったそうです。
ところが、完成してから3年後の天正10年(1582年)、本能寺の変により、信長は家臣の明智光秀に討たれてしまいます。安土城もその後間もなく炎上し(※炎上した経緯は、様々な説があります)、再建されることもなく廃城となってしまいました。
大手門を通ると、山頂に続く階段があります。ここが、大手道です。階段の両脇には家臣の羽柴秀吉や前田利家の屋敷(と伝えられている)が配置されていたそうです。 |
この大手道両脇の屋敷には、徳川家康の屋敷跡と伝えらている区画があることが、興味深いところです。何が興味深いのかというと、信長の同盟者であるはずの家康が、信長の家臣と同じ扱いを受けている、からです。当時、秀吉や利家は紛れも無く信長の家臣でありましたが、家康は信長の同盟相手でありました。実際のところは、対等な同盟関係ではなく、家康が信長に従属する形の同盟でしたが、安土城の遺構にも、その一面が出ているわけです。
さて、大手道をどんどん登って行くと、信長の嫡男・織田信忠の屋敷跡があります。正門から数えると、この辺が中間地点でしょうか。ここで、天主閣に行く道と、總見寺(そうけんじ)に向かう道に分かれています。まずは、天主閣に登ってみましょう。さらに階段を登っていくと、黒金門(くろがねもん)の跡があります。この門は、安土城の中核への入口となっていました。発掘調査の結果、天主閣炎上の際に、黒金門付近も火災に遭ったことがわかったそうです。それでは、中枢部分に入ってみましょう。
黒金門の抜けて少し階段を登ると、二の丸に入ります。二の丸は本丸の西に位置しています。ん?三の丸は飛ばした?? いえいえ、三の丸(と伝えられている区画)は、本丸の東側にあるんです。 |
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安土城の本丸は千畳敷と呼ばれ、大きな本丸御殿があったそうです。天主閣と二の丸、三の丸に囲まれ、視界は南方だけに開かれていたそうです。「信長公記」の記述から考えると、この御殿は天皇行幸をも視野に入れた建物だったとか。 |
そして、いよいよ山頂の天主台跡へ登りました。この天主台跡、安土城炎上後は再開発されることもなく、自然のなすがままになっていたそうです。昭和15年に初めて調査の手が入った時、堆積した土を除くと礎石が見事に姿を見せたそうです。7階建ての天主閣は地上6階、地下1階から成っており、現在天主閣跡となっているのは地下1階の部分だそうです。ただし、現存している地階部分の面積は、天主閣の大きさの1/2.5ほど。上部の石垣が崩壊したと考えられますが、その大きさを目で確認することはできません。
織田信忠邸跡の分かれ道まで引き返し、裏門につながる總見寺も見てきました。左の写真は、(たぶん)現存している總見寺の塔です。 |
<管理人の感想>
国の特別史跡に指定されているだけあって、発掘調査の説明書きが豊富にありました。これだけ巨大な城郭だと、調査にも時間がかかると思います。現在、大手道の石垣などが修復されている途中です。が、現存の遺構からでも十分に、安土城の壮大さがわかりました。完成後、わずか3年で炎上してしまったのは本当に残念です。
今回の安土城探検は、「ゆるりの集い」のイベントで行ってきました。参加者の皆様、長い山登りお疲れ様でした!!
<交通情報など>
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安土町ホームページ