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城・砦選択

備中松山城

時代区分戦国時代分類区分城・砦旧国名備中
現在地

岡山県高梁市内山下

国指定重要文化財(天守閣、二重櫓、三の平櫓東土塀:昭和25年指定)

関連人物

・三村元親 ・大石内蔵助


二の丸入口より、本丸を撮影。天守閣は二層二階と小さいが、現存木造建築物

備中松山城の歴史
 城が建っている山は「臥牛山(がぎゅうざん)」と呼ばれています。この山に砦が築かれたのは、鎌倉時代のこと。有漢郷の地頭に任命された秋庭三郎重信あきばさぶろうしげのぶ)の手により、延応2年(1240年)に築かれたそうです。その後、城主の変遷とともに城の縄張りも変化し、天正2年(1574年)の備中兵乱の時は、「砦二十一丸」と記録され、山全体が要塞化されていたと考えられています。その後、江戸時代になってから何度か城主が交代し、城郭も変遷を繰り返しながら、幕府老中となった板倉氏の時に明治維新を迎えました。
 ちなみに、忠臣蔵で有名な大石内蔵助は、当時松山城主だった水谷氏がお家断絶となった時に、城の受取人として1694年からおよそ1年間、この城に滞在していたことがありました。この後、大石の赤穂藩がお家断絶の憂き目に遭うとは、なんとも皮肉な話ですね。

大手門付近の様子。天然の崖と石垣を組み合わせて要塞化している様子がわかる

天守閣の1階には囲炉裏がありました。囲炉裏がある天守閣は、全国でも珍しいそうです

<管理人の感想>
 歴史の長い山城。戦国乱世が幕を閉じた後、城が政治的拠点としての役割を果たすようになり、それに伴って山城は不便なものになっていきましたが、この城は一藩の居城として機能し続けたことに驚きました。また、山登りの途中にある太鼓櫓にはセンサーがついており、人が来ると自動で音声案内が流れてきます。どれが現存建築物でどれが復元建築物が明確に示されており、発掘調査や復元作業過程についても説明が豊富です。山登りは少々しんどいかもしれませんが、訪れる価値の高い城だと思います。

<交通情報など>
・山の中腹までは車で登れます。土日休日は中腹の駐車場から有料バスが運行していますが、平日だと自力で登らねばなりません。

探検日:2004年11月7日
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