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肥前名護屋城

築城年 1591年 分類 平山城?
築城者 豊臣秀吉
歴代城主 豊臣秀吉
史跡指定 特別史跡(昭和30年指定)
現在地

佐賀県唐津市鎮西町名護屋
(旧国名:肥前)
<左写真:大手門跡>

略歴

・天正19年(1591年) 豊臣秀吉が唐入り(朝鮮出兵)のために築城開始
・慶長7年(1602年)  寺沢広高が唐津城築城のために建物を移築  

<肥前名護屋城の沿革>
 名護屋城は、天正19年(1591年)10月10日、天下人となった豊臣秀吉の「唐入り(朝鮮出兵)」の前線基地として築かれました。当時この地は、肥前松浦党の波多親の家来・名護屋経述の垣添城があり、前面の加部島が玄界灘の荒波を防ぐ自然の防波堤となっており、深い入江は軍船を停泊させるのに都合が良かったそうです。前線基地といっても、軍隊を一時収容することが主目的の「出城」とはまったく異なり、その規模は当時の大坂城に次ぐほどの大規模城郭でありました。縄張りは黒田孝高加藤清正小西行長ら九州大名が中心となって突貫工事が進められ、天正20年(1592年)2月にはほぼ完成したそうです。名護屋城の付近には動員された諸大名の陣屋跡がおよそ120も建設され、それらの家来衆を客とした商人も多量に流入したため、名護屋付近はわずかな期間で一つの城下町を形成したことが、これまでの調査で明らかになっています。
 名護屋城は、秀吉が没する慶長3年(1598年)までのおよそ7年間、諸大名が集結する城下町として栄えておりましたが、その後は利用されることはありませんでした。慶長7年(1602年)に唐津領主となった寺沢広高が、唐津城築城のために名護屋城の建築物を多く移築し、その後は島原の乱の後に破却されたと伝えられていますが、名護屋城廃城のはっきりとした年月は明らかになっておりません。

<名護屋城の価値と謎>
 名護屋城は、他の城とは異なる大きな特徴があります。「城としての命がたいへん短いうえに、城主の後退や廃城後の再利用がない」という点です。そのため、日本に残る安土桃山時代の総石垣の城郭跡としては最大規模の完存例であり、歴史的な価値はかなり高いことが認められております。周辺の諸大名陣屋跡も含めて、名護屋城の発掘調査が進められており、その成果が楽しみなところです。
 その発掘調査の結果、名護屋城は大規模な改修工事が行われていることが明らかになったそうです。本丸の一部の石垣は、築かれた後に埋められて、本丸を拡大して新たな石垣を築くという、他の城ではなかなか見られない遺構が発見された他、大手口や本丸大手門でも改築・増築の跡が発見されているそうです。7年間という短期間の間にこれほどの改築が行われた理由は、現時点では不明であり、名護屋城の謎とされております。

<おすすめ見所>
一部崩落している本丸石垣
 二の丸から撮影した本丸石垣の西面。本丸の石垣は高く、10mほどにもなります。当時は、5層の天守閣もそびえていました。二箇所が土で埋まっておりますが、これは石垣が崩落したために土が崩れた跡であるそうです。地震などの自然が原因であることも考えられるそうですが、廃城されたという経緯から考えると、人為的に破壊された跡ではないか、と考えられております。崩落して埋まった部分から、寛永通宝(江戸時代の通貨)が発掘されたことから、廃城の時期を決める手がかりになるかもしれません。
 このように、あちこちに崩壊した石垣が転がっているのも名護屋城の特徴の一つです。

遊撃丸と玄界灘
 本丸南西の隅櫓跡から撮影。中心に写っている郭は「遊撃丸」といい、ちょうど天守閣のすぐ下に位置しております。「遊撃丸」というのは変わった名前ですが、これは文禄2年(1593年)に講和の使者として訪れた「遊撃将軍」沈維敬の宿舎となったことに由来しているそうです。
 ちなみに本丸北面からは呼子大橋が正面に見え、美しい玄界灘が広がっております。

木下延俊陣屋跡
 名護屋城入口の向かい側に、大きな近代的建築の建物があります。佐賀県立名護屋城博物館です。その名のとおり、名護屋城の博物館なので、お城見学の前に見ておくと、よりいっそう城跡を楽しめることと思います。
 この博物館の裏手にある雑木林の中に、木下延俊(きのした のぶとし)の陣屋跡があります。延俊は、秀吉の正室・北政所の甥にあたる人物です。この陣屋跡も発掘調査が行われ、門を守る石垣などをそのままの形で見ることができます。あたり一面、雑木林になっておりますが、見学者用に遊歩道が整備されておりますので、足元の心配はほとんどありません(^-^)



探検日:2007年2月4日
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