島原の乱

乱のはじまり

 乱の直接の引き金となったのは、寛永14年(1637年)10月25日の有馬村代官殺傷事件だったそうです。戦国時代、有馬を治めていたのはキリシタン大名の有馬氏でした。そのため、有馬地方は特にキリシタン信仰が強く、幕府や島原松倉藩による徹底的なキリシタン弾圧によって改宗した民衆が多い反面、めげずに隠れて密かに信仰を守っていた民衆が多かったそうです。「コンフテリア」という秘密宗教結社を結成し、弾圧に負けない強い信仰が救済に通じる、と頑なに信仰を守っていたそうです。代官殺傷事件も、このキリシタン信仰が直接の原因でした。代官が取り締まりのためにキリシタンの集会に踏み込み、キリストの御影を引き裂いたところ、これまで溜まりに溜まった怒りが爆発し、農民達が代官を殺傷してしまった、と考えられます。
 これを契機に、有馬地方の農民達に決起を促す檄文が回され、キリシタンをはじめ、有馬家や小西家の浪人らも集まり、天草四郎時貞あまくさ しろう ときさだ:16歳)を総大将として、一揆軍が結成されました。この時、島原藩主の松倉勝家(まつくら かついえ)は参勤交代で江戸にいたため、島原藩は藩主不在のまま、一揆鎮圧に向かわねばなりませんでした。10月25日、一揆軍は代官所や商人の蔵などを襲撃しながら有馬から北上して島原城に向かい、途中の深江で島原藩軍を破り、島原城に迫ります。島原城は、農民から搾り取った重税と苛酷な労働で成り立った壮大な城でした。10月26日一揆軍は城下町に放火し、島原城を攻撃しますが、守りの堅い島原城は落ちませんでした。
 一方、天草四郎の故郷である天草でも、島原に呼応する形で一揆が勃発しました。天草は、唐津寺沢藩の飛び領でした。天草を治める富岡城の城代・三宅藤兵衛は、本領の唐津に援軍を求めます。このように、島原と天草の2方面で一揆が勃発し、現地の藩の武力ではとても叶わない、という状況に陥りました。
 11月9日、一揆の蜂起を知った幕府は、板倉重昌いたくら しげまさ:50歳)を総大将とした鎮圧軍の派遣を決定し、肥後細川藩、小倉小笠原藩、久留米有馬藩、肥前鍋島藩ら九州諸大名に動員令を出します。その数は総勢12万にものぼり、軍勢の規模は大坂の陣に匹敵するほどの大軍団を派遣したことになります。おそらく幕府はこの一揆を単なる百姓一揆とは考えず、キリスト教による宗教戦争と考えたのでしょう。実際、大坂の陣の直前には、キリシタン勢力が豊臣家に味方することを防ぐために高山右近のようなキリシタン大名を国外追放するという異例の処置を取るほど、幕府はキリスト教勢力を警戒した過去があります。

蜂起の背景にあるもの

 原城籠城戦の末期に、幕府軍に内通して捕らえられた山田右衛門作の証言によると、キリシタン弾圧が一区切りつき、表面上キリスト教が一掃された頃、ローマ教皇ウルバノ8世から島原のキリシタン宛に、「近いうちに殉教を覚悟した大量の宣教師を送り込む」という内容の手紙が届いてた、ということ。さらに、蜂起の前から「いずれ神の使いが現れて、異教徒に最後の審判を下す」という噂が流れていた、ということが記録されている。この「神の使い」とは天草四郎がその者である。また、この3年間は飢饉続きで民衆は並々ならない困窮状態にあり、この飢饉は民衆が弾圧に負けて改宗したことが原因である、という噂が蔓延していたそうだ。

富岡城の戦い

 最初に事態が動いたのは、天草でした。11月10日、富岡城に唐津からの援軍1500が到着すると、一揆関係者を火あぶりにして処刑し、一揆の鎮圧に動き出します。これに対して一揆軍は島原から天草に援軍を差し向け、11月14日、天草上島と天草下島のつなぎ目に近い本渡で一揆軍と唐津藩軍が衝突しました。この戦いは一揆軍の圧勝となり、富岡城代の三宅藤兵衛は討死。勢いに乗った一揆軍は富岡城を攻撃します。しかし、海に面した富岡城の守りは堅いものでした。一揆軍は二の丸まで占領しますが、本丸を落すことはできず、被害が大きくなり始めたために、やむを得ず一揆軍は撤退します。

原城籠城

 幕府から派遣された板倉軍が小倉に到着した頃、幕府では戦後処理のために上使として老中・松平信綱まつだいら のぶつな:41歳)を、副使として戸田氏鉄とだ うじかね)の派遣を決定しました。一方の一揆軍は、大軍が近くまで来ていることを知り、廃城となっていた原城に立て籠もることを決定。こうして集まった一揆軍は、老若男女合わせて3万7千人と伝えらています。兵糧・武器弾薬集めと城の改修に注力していました。3万7千人もの人が籠城するわけですから、食料は当然、仮の住居なども用意せねばなりません。近年の原城の発掘調査により、半地下式の住居跡が多数発見されたそうです。籠城した一揆軍は、ローマ教皇ウルバノ8世から届いた書簡の「大量の宣教師を送り込む」という一説をもとに、やがてポルトガルから援軍がやって来る、と期待していたそうです。
 原城を包囲した九州諸大名らの幕府軍は、12月8日12月20日と2回にわたって総攻撃をかけましたが、いずれも大きな戦果を挙げることができず失敗に終わります。その原因として、一揆軍の防衛態勢がよく整っていたことが一つ。もう一つは、軍の主力である九州諸大名が、幕臣とはいえ小大名の板倉重昌の指揮に従うことを良しとせず、功名争いに走って抜け駆けを繰り返すなど、幕府軍に統制がとれなかったことなどが挙げられます。
 こうして、島原の乱は年内に終息せず、翌年に持ち越されることとなります。


<参考>
・日本全史(講談社)
・新日本史B(桐原書店)
・新詳日本史図説(浜島書店)
・その時歴史が動いた 第274回 それでも民は祈り続けた 〜島原の乱・キリシタンの悲劇〜

<関連史跡>
「島原城」(長崎県島原市)
「原城」(長崎県南高来郡南有馬町)

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