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島原城

築城年 1618年〜
1625年
分類 平城
築城者 松倉重政
別名 森岳城
歴代城主 松倉家 → 高力家 → 松平家
→ 戸田家 → 松平家
現在地

長崎県島原市城内1丁目
(旧国名:肥前)
<天守閣と巽櫓を南東より撮影>

略歴

・元和4年(1618年)  松倉重政が築城開始
・寛永元年(1624年)  島原城完成
・寛永14年(1637年) 島原の乱勃発
・寛文9年(1669年)  丹波福知山城より松平忠房が7万石で入城
・明治7年(1894年)  大蔵省令によって廃城
・昭和39年(1964年) 天守閣再建

<島原城の沿革>
1.松倉重政の築城
 島原城を築いた松倉重政は、元和2年(1616年)、大和五条二万石から加増転封され、島原四万石の領主として、最初は日野江城に入城しました。築城の名手として知られた重政は、キリシタン信仰が根強く残っている政治的背景なども考慮し、新たに城を築くことを決意。一国一城令に基づき、日野江城や原城をはじめとした30余りの出城や砦を全て破却し、島原城の築城に取り掛かりました。
 7年3ヶ月の期間を費やして完成した連郭式平城の島原城は、層塔風総塗込式の天守閣に7つの城門、49の櫓を備え、4万石の大名の分限を超えて10万石大名格に匹敵するほどの城でした。しかし、豪壮な島原城を築く過程では、領民は重税にあえぎ、苛酷な賦役を課せられたという背景もあったそうです。

2.島原の乱と鯨
 松倉重政の跡を継いだ松倉勝家の時に、歴史上たいへん有名な島原の乱が勃発しました。一揆軍は手薄な島原城を攻撃し、わずかな武士が籠城して防戦態勢に入りましたが、何分突然のことだったため、城内の兵糧もわずかな備蓄しかなかったそうです。
 この時、先代の重政が万が一の時の為に、西の櫓の下に埋めておいた鯨2本を掘り出して、兵糧の足しにした、という記録が残っているそうです。こうして、島原城は一揆軍の攻撃をしのいで落城を免れたのでした。しかし、藩主の勝家は、乱の責任を問われて「斬首」という異例の処置を受け、島原松倉藩は取り潰されました。

3.現在の島原城
 松倉家廃絶の後、島原城は譜代の高力家、松平家、戸田家、再び松平家が入城し、藩主の居城として機能していました。しかし、明治維新によって廃城となり、城郭はほぼ全て破壊されてしまいました。
 戦後、壮大な姿を誇った島原城を復元する計画が持ち上がり、西の櫓、巽櫓、丑寅櫓、天守閣が史料館として再建されました。キリシタン史料館の天守閣には、島原の乱にまつわるキリシタンの歴史や遺品が展示されております。

<島原城の写真>
天守閣(北西より)
天草四郎像
記念撮影用鎧兜(自由に着れます)

<管理人の感想>
 大きな天守閣は、4万石の大名とは思えないほど、立派なものでした。これだけ大きいと天守閣だけがクローズアップされますが、櫓も3つ再建されています。それぞれの建物内部は史料館になっていますが、天守閣の「キリシタン史料館」は、島原の乱にまつわる展示品も多く、見応えがあります。
 ところでこの島原城。拙者の母が写真を見て「品が無い」と言っておりました。母は、城好きではない(嫌いでもない)のですが、拙者も「品が無い」とまで言わなくても、違和感を覚えておりました。その理由は、破風がないことにあるのではないか、と思います。多くの城に取り付けられている屋根の飾りである「破風」が、まったく無いのが島原城の特徴だと思います。母は「破風」の知識はありませんが、破風がないという違和感を、視覚で感じ取ったようです。感性って大切ですね。

<交通・開館情報>
・電車:島原鉄道「島原」駅より徒歩15分ほど
・車:城内に有料駐車場(1回310円)あり
・入城料:大人520円 小中高生260円
・開館時間:9:00〜17:30(入館は17時まで)

<付記>
・島原城の南のねはん像(江東寺)に松倉重政と板倉重昌の墓があります。
・北西に武家屋敷通りがあります。

探検日:2005年12月24日
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