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方広寺の鐘

時代区分江戸時代分類区分神社寺院旧国名山城
現在地

京都府京都市東山区茶屋町

重要文化財 (昭和43年指定)

関連人物

・豊臣秀吉 ・豊臣秀頼 ・徳川家康

関連事件

方広寺鐘銘事件

方広寺
 方広寺は豊臣家が滅んだ大坂の陣の引き金となった「方広寺鐘銘事件」の鐘が有名な場所です。鐘に刻まれた碑文が、徳川家康を呪い、豊臣家の繁栄を願っているものだ、と豊臣家が言いがかりをつけられ、大坂の陣が始まりました。
 方広寺というと鐘が有名ですが、建立したのは豊臣秀吉です。秀吉が子孫の繁栄を祈って、1586年に建立したのが始まりでした。奈良や鎌倉の大仏と並び立つほどの巨大な木造大仏(高さは約19m)も作り、それはそれは立派なものだったそうです。しかし、1596年に近畿を襲った大地震によって方広寺は大破。大仏も倒壊するという不運に見舞われました。やがて秀吉が亡くなり、それからしらばく経った1602年、「秀吉の冥福を祈るために」と家康が方広寺再建を秀頼・淀君母子に勧めました。表向きは亡き秀吉の供養のために、ということでしたが、家康の裏側の狙いは、寺を再建させて、豊臣家が蓄えている莫大な財産を消耗させることにあった、と言われております。豊臣家にとっても、秀吉が威信をかけて建てた方広寺が崩壊したままであることは面白くなかったことでしょう。しかし、この再建も途中で火事に見舞われ、大仏殿も大仏も焼失してしまう、という不運に見舞われました。3回目の再建でやっと再建されたと思ったら、鐘の碑文に言いがかりをつけられてしまったわけですね。


寺より鐘が有名??

<管理人の感想>
 秀吉が子孫の繁栄を祈って建てた寺が、逆に滅亡の原因になってしまったというのは、なんとも皮肉な話ですね。ちなみに、豊臣家の滅亡後も大仏殿と大仏は残っていたのですが、寛政10年(1798年)に落雷によって焼失してしまったそうです。

<交通情報など>
・豊国神社の北に隣接しています。専用の駐車場もあるみたいです。

探検日:2004年11月27日
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