<概要>
慶長19年(1614年)7月26日、徳川家康(73歳)が、豊臣家が再建した方広寺の鐘に刻まれた文字が家康を呪っているものだとして、落慶供養を延期するように命じた事件です。これは、豊臣家を滅ぼす口実を設けるための言いがかりであり、大坂の陣の直接の引き金の事件となりました。この策を提案したのは側近の金地院崇伝(こんちいんすうでん:46歳)であると言われています。
<事件の背景>
この頃、政治の実権は徳川家が握っており、豊臣家は65万石の一大名に過ぎませんでした。しかし、豊臣家を支持する公家も存在する他、秀吉が残した莫大な遺産に加えて、堅固な大坂城の存在は、徳川政権を脅かす存在でもあったわけです。そこで、徳川家がとった対豊臣家政策は「豊臣家の財力削減」でした。秀吉を偲ぶため、という口実でさかんに秀頼や淀君に寺社の修理を勧め、多くの寺院を復興造営させてきました。軍資金になりうる財力をそぐ方法ですね。その中でも、かつて秀吉が建立し、地震で崩壊したままだった方広寺は費用も莫大なものだったそうです。方広寺の大仏造営には、重量にしておよそ7.7t もの金が使われていたと伝えられています。
<方広寺について>
方広寺が建立されたのは、1586年のことでした。秀吉が子孫繁栄を願って建てたものだったそうです。しかし、1596年閏7月、近畿を襲った大地震で大破してしまい、約19mの木造大仏も倒壊してしまいました。豊臣家としては、この方広寺が倒壊したままほったらかしにすることは、たいへん面目ないことだったことでしょう。1602年4月、秀頼は方広寺の再建に着工しましたが、この年の末に火事で大仏殿も大仏も焼失してしまうという不運に見舞われてしまいました。1609年6月に3度目の再建に着手し、1611年11月、やっと豪壮な大仏殿が完成しました。問題になった方広寺の鐘は、4月16日に鋳造されており、あとは落慶供養を行って鐘楼に吊るされる予定だったそうです。
<開戦に踏み切りたい徳川家>
言いがかりをつけた後、家康は臨済宗五山の長老を招集し、碑文について意見具申させました。裏づけをとる、という目的でしょうか。この鐘銘に呪いが込められている、という言いがかりを学問的にも正当と認めさせたかったのでしょう。幕府の儒官である林羅山(はやし らざん:32歳)は、「君臣豊楽、子孫殷昌」を「豊臣を君とし、子孫の殷昌(繁栄)を楽しむ」と読み、「右僕射源朝臣(うぼくしゃみなもとのあそん)家康公」を「源朝臣家康公を射る」と読み、家康を呪っている碑文であることを裏付けました。この読み方に学問的にどうこういう議論が入り込む余地などはありません。多分に政治的な解釈です。豊臣家の外交係である片桐且元(かたぎり かつもと:59歳)は、これらの難癖に対して弁解しましたが、「無理が通れば道理が引っ込む」の言葉通り、理屈での弁解は事態の解決にはなりませんでした。こうして、形だけでも出陣の口実を得た徳川家は、諸大名を動員して豊臣家の武力討伐に乗り出したのです。
<参考>
・日本全史(講談社)
・新日本史B(桐原書店)
・新詳日本史図説(浜島書店)
<関連史跡>
・「方広寺」(京都府京都市東山区)
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