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古戦場・史跡公園選択

一の谷

時代区分源平合戦分類区分古戦場旧国名摂津
現在地兵庫県神戸市須磨区一ノ谷町

関連人物

・源義経 ・平敦盛 ・平重衡 ・熊谷直実

関連事件

一の谷の戦い

「一の谷」といえば、源平合戦。源義経の奇襲、鵯越の逆落としで平家の軍勢を打ち破った戦いが有名でしょう。この戦いで義経の武名はさらに飛躍しましたが、一方の平家は反撃の拠点を失い、没落の道をたどることになりました。

平重衡とらわれの碑

山陽電鉄「須磨寺」駅の入口すぐそばに、ひっそりとたたずんでいる「平重衡たいらのしげひらとらわれの碑」。知らないと、気付かずに通り過ぎても不思議ではないぐらい、存在感がありませんでした(^_^;)。
平重衡は清盛の息子で、父や兄を支えた武将でした。源氏が挙兵した治承4年(1180年)、敵対した南都を焼き討ちしております。その重衡も一の谷の戦いで敗れ、この辺りで捕虜となったそうです。昔は「平重衡捕らわれの松」という松があったそうですが、この場所に松はありませんでした。地元の人の話によると、商店街の邪魔になりはじめたので、切り倒したとか、別の場所に移植したとか、松についてはあまりよくわからなかったです(^_^;)

一の谷古戦場

一の谷一帯は、その名の通り、海岸線のすぐそばが急傾斜の山になっております。北は山、南は海に挟まれた東西に横に伸びている地形となっているため、横一線に防塞を築けば守るには有利だったでしょう。しかし義経は、平氏軍が天然の防塞と見ていた北の山から現れたため、総崩れになったと言われております。
一の谷古戦場は、現在は国道2号線が走っており、山側は公園として整備されております。

左の写真は敦盛塚。須磨寺の塚は首塚ですが、こちらには胴体が埋葬されたそうです。
かなり立派な石塔で、花も供えられておりました。この石塔は、熊谷直実が建立したとか、弘安年間(1278〜1288)に北条貞時が平家一門の冥福を祈って建立したとも言われております。

須磨公園内にある「戦の濱」の碑。 裏には「昭和十三年三月 神戸市観光課」と刻まれております。

一の谷の急傾斜の斜面は住宅地になっております。登るのは一苦労ですが、瀬戸内海が一望できる景観のよい場所でした。この一角の公園に、安徳天皇の内裏があったという伝説があるそうです。
当時、ここに内裏があったとしたなら、きっと美しい海が一望できる場所だったと思われます。

<交通手段>
電車:JR山陽本線「須磨」駅下車、2号線を西に徒歩15分ほど。
車:須磨公園の駐車場を利用。

探検日:2003年8月22日
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