築城年 | 1597〜1602年 | 分類 | 山城? | |
築城者 | 千々石淡路守 | |||
歴代城主 | 千々石家 → 龍造寺家 → 有馬家 | |||
現在地 | ||||
長崎県雲仙市千々石町 |
||||
略歴 | ||||
・永禄12年(1569年) 千々石淡路守が小倉城山に城を築く |
<釜蓋城の沿革>
天正少年遣欧使節の一人として有名な千々石ミゲルの生まれ故郷は、島原半島の付根に位置する千々石の町でした。この千々石の地で、戦国時代に築かれた城が釜蓋(かまぶた)城です。築城当時の肥前国は、佐賀の龍造寺家と島原半島の有馬家の2大勢力が覇権を争っていましたが、情勢は次第に龍造寺家に有利なものになっていきました。釜蓋城は、島原半島を守る防衛線としての役割を期待されて築城されたそうで、宣教師・ルイス・フロイスも著書の『日本史』の中で、釜蓋城の重要性を記しているそうです。
天正5年(1577年)、龍造寺家は2万とも3万ともいわれる大軍を島原半島に送り込み、釜蓋城にもその矛先が向けられました。時の城主・千々石大和守は、村人を避難させたうえで籠城。徹底抗戦の構を見せます。しかし、衆寡敵せず大和守は自刃。時に、25歳の若さだったといいます。主だった家臣達も自刃あるいは討死し、釜蓋城は陥落となりました。
その後、薩摩の島津家の援護を受けた有馬家と龍造寺家との間で攻防戦が繰り広げられ、釜蓋城も両者の争乱に関わりました。天正12年(1584年)3月の沖田畷の戦いで総大将の龍造寺隆信が討死したことで、島津・有馬軍の優勢が決まり、釜蓋城は有馬家の手に戻りました。しかし、元和2年(1616年)、島原半島の新たな領主として松倉重政が着任。居城・島原城の築城のために、釜蓋城は解体されて石垣などは島原に運ばれてしまい、廃城処分となりました。
それから時が過ぎ、島原の乱で、島原半島が大いに揺れた後の寛永20年(1643年)、釜蓋城跡に天満宮が建立され、釜蓋城の戦いで散った千々石大和守とその家臣、木戸萬九郎、町田兵七郎が合祀されたそうです。
<おすすめ見所> 展望台から眺める橘湾が本当に綺麗です。写真は撮りましたが公開しません(笑)。是非、足を運んでみてください。また、付近には日露戦争の軍神・橘周太中佐で有名な橘神社もあります。