時代区分 | 戦国時代 | 分類区分 | 城・砦 | 旧国名 | 近江 |
現在地 | 滋賀県蒲生郡安土町 | ||||
国指定史跡(昭和57年1月30日指定) | |||||
関連事件 | ・織田信長の上洛 |
観音寺城の歴史
観音寺(かんのんじ)城は、南近江を支配した戦国大名・六角氏の居城でありました。その起源は古く、今のところ文献の初出は「太平記」の1336年頃になるそうです。より詳細な築城時期などは不明とのこと。京都に近いこの地は、南北朝、戦国の騒乱で幾度か戦火に遭い、幾度かの改修、増築工事を繰り返して、最終的には標高432mの観音寺山(別名:きぬがさ山)全体を要塞化した巨大な山城になったと考えられています。例えるなら、上杉謙信の春日山城のような城だったようです。
山頂の本丸を中心に、桑実寺、観音正寺の方面に家臣達の名前が付いた郭が多く配置されていたそうです。また、井戸もあちこちに多く設置されていました。これらの事実から、家臣達の屋敷を巨大な山城の中に組み込んでいたのでは?と、考えられています。山城に家臣達の屋敷を配するという形態は、戦国時代の山城には極めて稀な例だそうです。
16世紀前半、六角定頼(ろっかく さだより)が当主だった頃は、室町幕府12代将軍の足利義晴(あしかが よしはる)を一時的に保護し、北近江の浅井氏を傘下に収めるなど、強大な力を誇っていましたが、永禄11年(1568年)、織田信長の上洛軍に支城を次々と落とされてしまいます。時の当主、六角義賢(ろっかく よしかた:承偵(しょうてい))、義治(よしはる)親子はこの城を捨てて逃亡。六角氏は歴史の表舞台から姿を消しました。
この後、すぐに廃城となった、という説がある一方で、安土城が築かれた後は、詰城として使用されていた、という説もありますが、定かではないようです。しかし、六角氏の没落とともに、観音寺城もその役割を終えたことは間違いないようですね。
観音寺城の登山口は2つあるようで、桑実寺方面から登る道と、観音正寺から登る道があります。今回は、桑実寺から登る道を行きましたが、けっこう急勾配な階段、道も多いです。史跡探検というよりは、手軽な登山だと考えて準備した方がいいと思います。
管理人の感想
登山道の途中では、あちこちに木と苔に覆われた石垣を見ることができます。ただ、ちょっと残念なのは、国指定史跡のわりには説明書が少ないことでしょうか。郭も木々がうっそうと茂っているので、一般人が普通に登山道を登っても、城の遺構の多くは見逃されているかと思います。春日山城などのように、もっと整備されたたら面白いと思うのですが・・・・、近くの安土城の復興があるので、しばらくは無理でしょうか?
今回は「ゆるりの集い」の史跡探検に加えてもらって行ってきました。参加者のみなさま、お疲れ様でした。
<参考>
・本丸説明書
・文化庁オンライン情報