織田信長の上洛

 永禄11年(1568年)9月7日織田信長(35歳)が足利義昭(32歳)を奉じて、ついに上洛軍を出発させました。信長による天下布武の第一歩とも言えるでしょう。当時、尾張・美濃を支配下に置いていた信長にとって、京都までの道のりは近江1国を通過するのみでした(地理の面からいっても、信長の上洛軍はかなり有利な点が多かったことでしょう)。北近江の浅井長政は、信長の妹・お市の方を正室に迎えており、義理の弟の関係にあったので、信長の上洛には協力的だったのですが、南近江の六角義賢ろっかく よしかた)は協力を断固拒否。ばかりか、京都を実質的に治めていた三好三人衆と連携して対抗する構えを見せたました。



観音寺山 遠景

六角軍は防備を整えて織田軍を迎え撃ちますが、17ヵ所にも及ぶ城砦をわずか3日で落とされるという、見事な敗北を喫します。9月12日には、箕作(みつくり)城を落とされ、翌13日には六角家の本城・観音寺城を包囲されてしまいました。義賢と義治親子は城を捨てて逃亡。信長の上洛軍の前に、鎌倉時代から続いた名族の六角家はあえなく滅亡してしまったわけです(逃亡後も、義賢は反信長勢力の一つとして戦い続けましたが、のちに敗死します)。
 写真は現在の観音寺山。当時は、この山全体が巨大な城郭を形成してしていたわけです。

(2004年 秋 「信長の館」駐車場より撮影)

 9月26日、織田軍は京都に入洛。出発から20日も経っていません。三好三人衆らは尻尾をまいて逃走したそうです。京に入った信長、まずは足利義昭を清水寺に入れ、自らは東寺に陣を敷きました。さらに、細川藤孝(35歳)らに天皇の内裏を護衛させ、家臣の柴田勝家らには、三好三人衆に属する勝龍寺城を攻め落させて、京都を安定させました。
 さて、京都の町衆の織田軍に対する感情はどうだったのでしょうか?古の源平合戦の頃、平家を都から追い落とした木曽義仲の軍勢は傍若無人の乱暴狼藉をはたらいています。田舎から新たな権力者が入ってきて、不安を覚えた民衆の中には家財をまとめて逃げ出す者もいたそうですが、信長は軍の規律を正し、略奪などは一切許さなかったそうです。事実かどうかはわかりませんが、こんな話が伝わっています。
 ある女が笠をかぶって通りを歩いていると、織田軍の足軽が笠をとって顔を覗き込もうとしたところ、信長自身の手によって斬り殺された、という話です。こんな話ができるほど、織田軍の規律正しさは町衆に評価され、信長の陣には多くの贈り物が届きました。著名な人物では、連歌師の里村紹巴さとむら じょうは)、医師の曲直瀬道三まなせ どうさん)らが、信長の陣を訪れたそうです。
 こうして、信長の上洛は失敗することもなく無事に達成され、天下布武の第一歩を踏み出すことに成功したのです。

 ちなみに、14代将軍の足利義栄あしかが よしひで:31歳)は阿波へ逃走する途中、摂津の富田(とんだ:大阪府高槻市)で急逝しました。三好三人衆に担がれて将軍になったものの、何もできないうちに都を追われて生涯を閉じてしまったのは、可哀相な気もします。


<参考>
・日本全史(講談社)
・ビジュアル日本の歴史 No.1(デアゴスティーニジャパン)

<関連史跡>
・織田軍に攻め落とされた 「箕作城」(滋賀県蒲生郡五個荘町)
・六角家の居城 「観音寺城」(滋賀県蒲生郡安土町)
・柴田勝家らが攻略 「勝龍寺城」(京都府長岡京市)

戦国時代年表へ戻る
侍庵トップページへ戻る