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城・砦選択

勝龍寺城

時代区分織豊・戦国時代分類区分城・砦旧国名山城
現在地京都府長岡京市東神足2丁目

関連人物

・細川藤孝 ・細川忠興 ・細川ガラシャ

関連事件

織田信長の上洛
山崎の戦い


勝龍寺城の歴史
 勝龍寺(しょうりゅうじ)城が築かれたのは南北朝時代の動乱期。暦応2年(1339年)に、細川頼春ほそかわ よりはる)が築城したと言われております。その後、応仁の乱の時には畠山義就はたけやま よしなり)の拠点となったそうです。
 戦国の騒乱真っ最中の1568年(永禄11年)、織田信長足利義昭を奉じて、上洛軍を進発させました。信長軍は南近江の六角家を打ち破り、京の都に迫ります。当時、京都周辺に勢力を持っていたのは三好三人衆でしたが、彼らは信長の勢いを怖れて一旦退却。三好三人衆の一人、岩成友道いわなり ともみち)は勝龍寺城に籠城して抵抗する構えを見せました。しかし、信長は家臣の柴田勝家らに勝龍寺城を攻撃させ、城は陥落しました。その後、勝龍寺城は織田信長に仕えていた細川藤孝ほそかわ ふじたか)の城となりました。
 1578年(天正6年)、同じく信長に仕えていた明智光秀の娘・玉(のちの細川ガラシャ)と藤孝の嫡男・忠興ただおき)の婚礼が執り行われました。当時、二人は数え年16歳でした。そういう意味では、のちに、時代に翻弄された悲劇的な人生を歩んだと言われる細川ガラシャの物語の始まりの場所ですね、ここは。

細川忠興・ガラシャ像

現在は「勝龍寺城公園」として、堀・塀・門・櫓が復興されており、城内は公園になっております。櫓の一つは簡単な資料館になっており、発掘調査の様子を記した写真や、発掘物が展示されています。
上の写真は、公園内にある細川忠興・ガラシャの銅像です。

 その後、信長の天下統一事業に従い、藤孝にはより広大な領地を与えられて別の城に移りました。さらに時は流れ、光秀が信長を討った本能寺の変が起こります。光秀は、娘が嫁いでいる細川家に味方になるように頼みましたが、細川親子はこれを拒否。さらに、玉を軟禁状態にしてしまったそうです(この辺の対応については、いくつか説がありますが)。味方を増やすことに失敗した明智光秀は、山崎の戦い羽柴秀吉に敗れて命を落しました。この時、明智軍の拠点となった勝龍寺城も、この戦いで落城したそうです。

勝龍寺城の構えについて
 史跡公園として整備するにあたり、勝龍寺城の発掘調査が行われました。その結果、細川藤孝が城主だった頃に、石垣や多聞櫓が存在したことが確認されたそうです。また、現在公園になっているのは本丸とそれに付随した形の沼田丸の2郭だけですが、城の北東に位置する神足(こうたり)神社からは土塁や空堀の跡が発見されました。これらのことをまとめると、勝龍寺城は、鉄砲戦にも対応した中世城郭と近世城郭の過渡期に築かれた城であり、城郭史上の価値が高いものである、と考えられているそうです。

<管理人の感想>
 城跡なので「城・砦」に分類しましたが、中身は公園と言った方が正確だと思います。塀も櫓も公園内も本当に綺麗に整備されています。小川のせせらぎが耳に心地よかったです。諸所の説明書や櫓の展示物など、史料の整備・展示もしっかりしているのが印象的でした。

<交通情報など>
・JR東海道本線(京都線)「長岡京」駅より徒歩7分ほど。
・沼田丸の隣に、数台止められる駐車場あり。

探検日:2004年9月26日
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