山崎の戦い

概要

 1582年(天正10年)6月13日、山城国は山崎で羽柴秀吉(46歳)と明智光秀(55歳)の戦いが繰り広げられた。この戦いの11日前、光秀は本能寺の変で主君であった織田信長を討った。この時、有力な信長の家臣たちは、それぞれ畿内から離れた方面で敵と戦っていたため、事件が起きてもすぐに畿内に戻ることが困難な状況であった。光秀は、その間に事後処理を終えて自分の勢力を磐石なものにする計算であったが、山陽方面から信じられないほどの早さで秀吉が戻ってきたのである。また、光秀の頼みの綱であった縁戚関係の大名は味方せず、一部の部下は秀吉に寝返ったため、光秀の戦力は大きく低下していた。
 この戦いで明智軍は大敗し、光秀は敗走途中で落ち武者狩りに遭って命を落とした。一方、勝者となった秀吉は、実質的に信長の跡を継いで天下統一事業を進めて行くことになった。

天王山中腹の展望台付近にそびえる石碑。
戦場付近の天王山をいち早く占領した秀吉軍は地の利を得、戦いを有利に進めたという。


もうちょっと詳しく

1.秀吉の「大返し」
 当時秀吉が攻略を担当していたのは山陽道。西国の覇者である毛利家が相手であった。その戦いは決して楽なものではなかったが、秀吉は持ち前の才覚で戦果を挙げ、この時は備中高松城を包囲していた。城主は勇将の誉れ高い清水宗治しみず むねはる)である。秀吉は河川をせき止めることで、この城を水攻めにしており、外部との連絡が遮断されてしまった高松城の落城は間近であった。6月3日夜、秀吉の元にとんでもない凶報が舞い込んできた。主君・信長が光秀の裏切りによって討たれたというのである。この情報は、毛利方に向かう光秀の密使が秀吉軍に捕らえられたことでもたらされた。秀吉はこの夜のうちに、高松城主・清水宗治の切腹と引換に城兵の命を助けて包囲を解く、という条件で毛利家と和睦した。
 6月5日、清水宗治の切腹を見届けて和睦の儀式を済ませる一方で、畿内に戻るべく準備を進めた。そして翌日6日、陣を引き払って退却し、およそ70kmの道のりを2日間で走破して姫路城に入った。ここで軍備の点検などで1日を費やした後に再び出陣。10日には摂津国は尼崎に到着した。世に言う「秀吉の大返し」である。

2.兵が集まらない明智軍
 光秀は、秀吉の早すぎる帰還に驚き、すぐに京都に戻って縁戚の大名や部下の武将たちに出兵の要請を行った。しかし、事は光秀の思うようには運ばなかった。まず、縁戚であると同時に光秀の与力大名であった細川藤孝ほそかわ ふじたか:49歳)に協力を求めた。光秀の娘「玉(洗礼名:ガラシャ)」は藤孝の嫡男・忠興ただおき:20歳)に嫁いでいたのである。しかし、藤孝・忠興親子は信長の死を知ると剃髪して弔意を示し、光秀への協力を拒否した。もう一人、光秀の与力大名に大和守護の筒井順慶つつい じゅんけい:34歳)がいた。順慶の力が弱かった時に、光秀の仲介で信長の後援をとりつけたおかげで、順慶は大和一国を統一できたという過去があり、光秀との仲は親密であった。しかし、変を知った順慶は居城・大和郡山城に居座って動こうとしなかった。光秀軍は国境付近の洞ヶ峠(ほらがとうげ)まで進んで出兵を催促したが、ついに順慶は動かなかった。光秀は順慶の協力を諦めて、勝龍寺城に入って戦に備えた。光秀の指揮下にあった茨木城主の中川清秀なかがわ きよひで)や、高槻城主の高山右近たかやま うこん:31歳)までもが秀吉に寝返ってしまい、明智軍の戦力は大きく低下した。その兵力は1万4000〜6000ほどであったという。一方の秀吉軍は、3万数千〜4万に及ぶ軍勢を集めていたという。

3.山崎の戦い
 6月13日、戦いの火蓋が切って落とされた。山崎は、天王山と淀川に挟まれた土地である。ここでは、大部隊が展開して交戦することが困難であった。秀吉軍、光秀軍双方にとって天王山の存在が重要であった。そして、この天王山を先に占領したのが、秀吉軍の中川清秀と高山右近らであったと言われている。この付近は彼らの居城の近くであるため、道に慣れていたのであろう。この方面に向かった明知軍は、斎藤利三並河掃部松田太郎左衛門らの精鋭部隊であったが、戦況は芳しくなかった。一方、川沿いでは羽柴軍の池田恒興加藤光泰木村隼人らが進軍し、手薄だった明智軍を次々と打ち破っていった。
 戦闘開始からおよそ1時間後、辺りが夕闇に紛れる頃に戦いは終わった。秀吉軍の圧勝であった。敗れた光秀は勝龍寺城に入ったが、夜に紛れて城を捨て、本拠地である近江坂本城に向かった。しかし、その途中の山科は小栗栖(おぐるす)で落ち武者狩りに遭い、命を落とした。享年、55歳であった。一方の秀吉は勝者として凱旋し、実質的な信長の後継者としての地位を築いていくことになる。

<関連史跡>
天王山:勝敗を分けたと評される戦場付近の山 (京都府乙訓郡大山崎町)
・勝龍寺城:戦前、戦後に光秀が入った城。 (京都府長岡京市)

<参考>
・日本全史(講談社)
・新詳日本史図説(浜島書店)
・天王山大山崎町の解説絵巻

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