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史跡公園・古戦場選択

天王山

時代区分

織豊・戦国時代
幕末

分類区分古戦場旧国名山城
現在地京都府乙訓郡大山崎町

関連人物

・豊臣秀吉、明智光秀他、山崎の戦い従軍武将
・真木和泉守保臣

関連事件

・山崎の戦い ・蛤御門の変

山崎の戦い
 天下統一を進める織田信長が、家臣の明智光秀の手によって志半ばで討たれた本能寺の変。その頃、備中高松城を包囲し、毛利家と戦っていた羽柴秀吉は、事件を知り、急遽毛利家と和睦。明智光秀を討つために急いで畿内に引き返したのです。短い時間の中で、毛利家と和睦の話をまとめ、大軍勢を率いて備中から畿内まで戻ったこの行動は「大返し」と呼ばれています。
 秀吉の迅速な行動に驚いたのは光秀でした。この頃、織田家の有力な家臣達は、畿内から離れたそれぞれの担当地方で敵軍と戦っており、畿内で急変が起きてもすぐに対応できない状況にありました。その間に、光秀は味方を増やして足元を固めるつもりだったのですが、固める前に秀吉が軍団を率いて戻ってきたわけです。光秀は縁戚の大名や部下に援軍を求めましたが、光秀に味方する者はほとんどいませんでした。それどころか、畿内の多くの武将たちは秀吉を支持したのです。
 天正10年(1582年)6月13日。天王山(てんのうざん)の麓にて、羽柴軍と明智軍の戦いの火蓋が切って落とされました。明智軍の兵力はおよそ1万6000。対する羽柴軍は、多くの武将を味方に引き入れて3万数千人にも及んだと言われています。数で勝る羽柴軍は、天王山を占領することで地の利も得ることに成功。この日の戦いで、明智軍は敗れて四散したのでありました。光秀は、本拠である近江坂本城に逃げる途中、山科で土民の落ち武者狩りに遭って重傷を負い、自刃して果てたと言われております。
 一方、勝者となった秀吉は、光秀を討った功により織田家の後継者問題で主導権を握り、実質的に信長の後を継ぎ、後に天下統一を果たすのでありました。
 拙者が大学受験生だった頃、「夏は受験の天王山」という予備校の宣伝をよく見ました。「夏休みは大学受験の成否を決める正念場」という意味です。「天王山」は、上記の故事に由来して「勝敗を決める勝負の分かれ目」という意味を持つ言葉になりました。

天王山中腹の展望台の近くに、秀吉が旗を立てたという「旗立松」がある(松は何代かに渡って植え替えられている)。
この石碑は、昭和58年11月に大山崎町がそのすぐそばに建てたもの。

真木和泉守ら17人の自刃
 時は幕末動乱の時代。文久3年(1863年)の8月18日の政変で、会津藩・薩摩藩らにより京都朝廷から追放された長州藩は、勢力挽回の機会をうかがっていた。そんな中、過激な尊皇攘夷思想を持つ長州系浪士らが多数、新選組に斬られるという池田屋事件が起こった。この事件は長州藩を強く刺激した。ついには藩兵を上洛させて、尊攘浪士らと合流。会津藩と薩摩藩の非を朝廷に認めてもらい、長州の復権を実力行使で勝ち取ろうとしたのであった。元治元年(1864年)7月19日。世に言う蛤御門の変(禁門の変)である。
 しかし、戦いは長州藩の完全敗北であった。久留米水天宮の神官・真木和泉守保臣まき いずみのかみ まさおみ:52歳)ら17人の尊攘志士は天王山まで退却したが、京都の地を去るのは忍びないということで、7月21日。この地で自刃して果てたのである。

上写真の展望台からさらに登ったところに、林に囲まれたひっそりとした空間の中に「十七烈士の墓」があった。
この墓は、昭和59年11月に天王山十七烈士奉賛会によって建立されたもの。

<管理人の感想>
 現在の天王山は、ハイキングコースとして親しまれているようです。拙者が登った時も、家族連れやハイキング同好会(?)の方々を何度も見かけました。標高270mほどの山なので、特別な装備も必要なく、日帰りで十分楽しめます。特徴的なのは、町が山崎の戦いを描いた陶板を登山道の途中にいくつか立てているので、登山者は山登りと同時に山崎の戦いの物語を読んで行く事ができるという設定になっていることです。解説文は堺屋太一氏、屏風絵は日本画家の岩井弘氏が手がけたそうです。
 ちなみに、秀吉は戦後間もなく、この山に城を築いたそうですが(「天王山城」あるいは「山崎城」)、間もなく大坂城を築いてそこに本拠地を移したために、短命で終わったそうです。山頂には、人が50人は収容できそうな削平地と井戸跡とされるものがありました。
 一番眺めがいいのは、石碑が建っている中腹の展望台でしょう。淀川沿いの街が一望できます。しかし、山頂は木々に囲まれているために、ほとんど何も見えなかったのは残念でしたね。

<交通情報など>
・JR東海道本線(京都線)「山崎」駅より山頂まで徒歩45分ほど。
・阪急京都線「大山崎」駅からJR「山崎」駅までは徒歩3分ほど。
・途中の宝積寺までは車で登れます。

探検日:2004年9月23日
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