時代区分 | 南北朝時代 | 分類区分 | 史跡公園 | 旧国名 | 和泉 |
現在地 | 大阪府大阪市阿倍野区王子町3丁目 | ||||
大阪府指定史跡 |
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関連人物 | ・北畠顕家 |
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関連事件 |
北畠公園
天王寺駅から府道30号線沿いに南へ1.5kmほど下って行くと、左手に小さな公園が見えてきます。ここが北畠公園です。この公園には、南北朝時代に南朝の勇将として讃えられた北畠顕家(きたばたけ あきいえ)のもの、と伝えられる墓があります。
建武の親政が失敗して間もない1338年{延元3年(南朝)・建武5年(北朝)}、後醍醐天皇の要請を受けて、東北軍団を率いてやってきた鎮守府将軍・北畠顕家は、北朝の手から京都を奪回すべく、畿内で激しい戦いを繰り広げておりました。しかし、戦況は次第に北畠軍に不利なものになっていき、ついには和泉国は堺、石津の地にて壮烈な戦死を遂げました。この時、顕家は21歳という若さでした。若き勇将の死は、南朝の公家・武士たちを大いに悲しませ、涙を流さない者はいなかった、と伝えられております。
石津の戦い?阿倍野の戦い?
地図を眺めてみても、この公園の付近に「石津」という地名はありません。代わりに「北畠」という地名が今も使用されています。「石津」は、もう少し南に下った堺市にあります。墓の脇に掲げられている説明書きには、何かの本から引用してきたと思われる絵巻物風の絵が載せられており、その絵には「顕家卿阿倍野合戦之図」と説明が付されていて、阿倍野合戦が顕家の最期の戦いだった、と書いていました。そうなると、教科書などに載っている「石津の戦い」という表記だと、少し場所がずれているのですが・・どういうことなのでしょう?? どういう考証を経て、ここを北畠顕家の墓としたのかも、現地を訪れるだけではわからなかったので、謎のままです。
南北朝時代関連の史跡、特に南朝方の人物の史跡は、明治維新以後に政府から大きな評価を得たため、大きな顕彰石碑が合わせて立っていることが多いですが、ここは入口付近に大きな石碑が立っているのみで、墓の周囲は木々に囲まれて静かなたたずまいを見せていました。
<交通情報など>
・駐車場無し。
・阪堺電軌上町線「きたばたけ」下車 徒歩5分ほど