石津の戦い

 京都から逃れた後醍醐天皇は、大和の吉野にて再起を図ります。しかし、頼みの綱であった楠木正成を失った天皇の武力は大きく削がれていました。そこで、起用されたのが鎮守府将軍として東北地方の平定に赴いている北畠顕家(きたばたけ あきいえ)です。顕家は武家ではありません。天皇の側近である北畠親房(きたばたけ ちかふさ)の嫡男であり、高い官位を持っている若き公家でした。しかし、足利尊氏が天皇に叛旗を翻して京都を占領した時、南朝方の武将の一人として、東北の武士団を率いて上洛して奮戦し、その武功は誰もが認めるものだったのです。再び、足利家の手から京都を奪回するために、再度北畠顕家が招請されたわけです。1337年(南:延元2年 北:建武4年)8月11日、顕家は義良親王(のりよししんのう)を奉じて東北の霊山城を進発。その軍勢はおよそ6万騎もの大軍だったそうです。各地で北朝方の勢力を牽制・交戦しつつ西進し、12月23日に鎌倉入り。翌年1月には美濃にまで到達しました。
 しかし、北畠顕家軍の快進撃の進路はここで阻まれます。1月28日美濃の青野原(あおのがはら:岐阜県大垣市)の戦いで、足利家の武将・高師冬(こうのもろふゆ)桃井直常(もものい なおつね)らの軍勢に敗れてしまいます。美濃を突破できれば、近江を経て京都に進撃することができたのですが、その進路を阻まれてしまったのです。顕家は、美濃の突破を中止して進路を伊勢に転じます。伊勢から大和に入り、南から京都に入ろうと試みますが、2月21日奈良で再び桃井直常らの軍勢と戦って敗れてしまいました。
(北畠軍の戦力の衰えは、長距離遠征の疲れによるもの??)
この戦いの後、義良親王は父皇のいる吉野へ向かい、顕家自身は河内・和泉に回ります。そして、顕家の弟の 北畠顕信(きたばたけ あきのぶ)らは別働隊を率いて京都の南、男山八幡宮に進出しました。一方の北朝軍は、高師直(こうのもろなお)が中心となって北畠軍迎撃に当りました。師直は顕信の男山を包囲する一方で、河内・和泉に主力を送り込み、顕家の軍と一進一退の攻防を繰り広げました。そして5月22日、和泉国は堺の石津(大阪市阿倍野区)の地にて、北畠顕家は一敗地にまみれてしまいます。顕家と彼に従う20騎ほどの武者は最期まで獅子奮迅の働きを見せましたが、力及ばず壮烈な戦死を遂げました。時に北畠顕家、21歳という若さでした。

北畠顕家の諌奏文

 公家でありながら、武将として戦った北畠顕家。彼は一人の将軍であると同時に、国の現状を憂える為政者でもありました。そのことを示す文書が残っています。顕家が戦死する1週間前の5月15日、顕家が陣中から後醍醐天皇に宛てた諌奏文です。この奏上文は前の部分が欠落し、後ろの部分しか残っておりません。が、その中には、親政の今後に対する意見具申と、現状に対する厳しい批判が込められていました。その内容は

1.西府(九州)と東関(関東)平定のために人を派遣し、山陽、北陸に藩鎮を置くこと。
2.戦で疲弊した民の租税を減らし、倹約すること。
3.爵位の授与、人材登用は慎重に行うこと。
4.公家、僧侶への褒美は働きに応じて与えること。
5.臨時の行幸、酒宴は控えること。
6.法令に尊厳を持たせ、朝令暮改は慎むこと。
7.公家、官女、僧侶などが政治に介入し、政務を害している。益のないものは退けること。

と、なっております。
民の困窮、人材登用や褒美の乱れ、佞臣のはびこり、行幸・酒宴による経費の無駄使いなどに言及し、厳しく批判しています。この諌奏文が的を射ているとするなら、建武の親政はかなり乱れていたものだった、と考えることができます。顕家は「先非を改められず、太平の世に戻す努力が為されないならば、唐の国に故事に倣って、私は陛下の元を去り、山野に隠れることでしょう。」と文を締めくくっています。顕家の覚悟の程が伝わってきます。彼のような優れた人材が、若くして命を散らしてしまったのはたいへん悲しいことですね。

顕家戦死の後

 顕家戦死の報がもたらされた吉野では、武士、僧、公家など多くの者が涙を流さずにはいられませんでした。特に、顕家の父・親房の嘆きはたいへんなものだったそうです。男山八幡宮で戦っていた北畠顕信の軍勢も、7月5日には高師直の軍勢に敗れて四散しました。閏7月26日後醍醐天皇は顕信を鎮守府将軍に任命し東北の平定を指示しますが、顕家を失った痛手を回復するには、まだまだ多くの時間を必要としました。

<参考>
・新日本史B(桐原書店)
・新詳日本史図説(浜島書店)
・日本全史(講談社)
・阿部野神社説明書き
・北畠公園説明書き

<関連史跡>
「阿部野神社」(大阪府大阪市阿倍野区)
「北畠公園」(同上)

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