史跡探検記表紙 > 城・砦選択

小倉城

築城年 1602年 分類 平城?
築城者 細川忠興
歴代城主 細川家 → 小笠原家
石垣形態 野面乱積
天守閣

高さ:47.5m(石垣:18.8m 建物:28.7m)
外観5層6階 唐造り
鉄筋コンクリート構造

現在地

福岡県北九州市小倉北区城内2番1号
(旧国名:豊前)
<左写真は北側八坂神社参道より撮影。
手前の門は、八坂神社の門。>

略歴

・慶長7年(1602年)  細川忠興が築城 以後小倉細川藩の居城
・寛永9年(1632年)  小笠原忠真が入城 以後小倉小笠原藩の居城
・天保8年(1837年)  火災により天守閣焼失
・慶応2年(1866年)  第二次長州征伐に敗れ炎上
・昭和34年(1959年) 天守閣が再建される

<小倉城の沿革>
1.細川忠興の築城
 小倉城の始まりはいつなのか、はっきりしたことはわかっておりません。源平合戦の頃、この地方に勢力をふるっていた緒方惟義(おがた これよし)が築いたという城が、小倉城に相当するのかもしれませんが、確たることは言えません。しかし、戦国時代になって、大内氏と大友氏による領土争奪戦が展開されていた頃には、城というよりも小さな砦のようなものが築かれていたことが、文献から推察されているそうです。
 近世小倉城を築いたのは、細川忠興でした。関が原の合戦の褒美として、豊前と豊後の一部を領有した忠興は、領国経営の拠点として小倉城を築きました。外観5層6階の大きな天守閣は、黒塗り5層目が下の4層目よりも大きいという特徴があります。これは「唐造り」と呼ばれ、当時でも珍しい形態であったそうです。現在、再建された小倉城天守閣は、この「唐造り」を再現しております。しかし、破風は昔の絵図面には存在しておりません。計画の段階で、新たに付け加えて再建されたそうです。

2.小笠原家の入城と第二次長州征伐
 熊本藩の加藤家が不祥事により改易されたのち、細川家は熊本に転封となりました。代わって小倉城に入ったのが、播磨明石城の譜代大名・小笠原忠真(おがさわら ただざね)でした。石高15万石の小倉小笠原藩は九州の監視役を担った譜代大名としての役割を果たしたそうです。以後、小倉は小笠原家の城下町として発展していきました。
 しかし、江戸時代後期は小倉城にとって受難の時期でありました。まず、天保8年(1837年)に、城内の塩切場から出火し、天守閣はじめ本丸が焼失してしまいます。2年後に本丸は再建されましたが、天守閣は再建されませんでした。そして、幕末動乱の時は、第二次長州征伐の際に幕府軍の拠点となりました。この方面は、高杉晋作率いる奇兵隊を主力とした長州藩の軍と、熊本藩・小倉藩を中心とした九州諸藩の軍の激しい戦場となりました。その結果、九州諸藩の軍勢は敗れ、小倉藩は自ら城内に火を放って逃走するという、いわば「落城」の形で幕を閉じるのでありました。その時の炎によって、本丸の鉄門前の石垣が赤変しているのが、今でも残っています。

3.現在の小倉城
 小倉城は、近代日本軍の拠点として、第12師団の本部が設置されました。小倉の師団は、日本軍の中でも精強な軍団として評判になっており、日清・日露戦争をはじめ、第一線で活躍しております。第二次大戦敗戦後は、米軍に接収されておりましたがやがて返還され、小倉のシンボルとして、再建されました。
 現在、天守閣は歴史資料館となっております。からくり仕掛けの小倉城下町のジオラマ、大名かご(乗れます。しかも揺れます(笑))、島原の乱出陣の軍議風景を人形と映像で再現したコーナーなど、なかなか楽しめる内容になっております。

<小倉城の写真>
天守閣(北東より)
天守閣と多聞(南側より。背後に見える赤いのはショッピングモールの一部です。)
天守閣西面

<管理人の感想>
 車椅子の方でも見学できるように、椅子式階段昇降機が設置されております。現在の小倉城は、史実に基づいて復元する、という観点に、観光資源として再建するという意図が込められて再建されたようです。エレベーターこそありませんが、このようなバリアフリー化が施されているのも、その一つなのではないかと思います。
 第二次長州征伐についての展示を期待していたのですが、それについてはわずかしか触れられていなかったのが少々残念です。

<交通情報>
・電車:JR「小倉」駅より徒歩15分ほど
・車:付近に有料駐車場あり

<付記>
・付近に小倉城庭園があります。庭園の他、小笠原流礼法と折り紙文化の資料館となっております。
・小倉城にはあまり関係ありませんが、松本清張記念館がすぐそばにあります。

探検日:2005年8月27日
侍庵トップページへ戻る