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松阪御城番屋敷

時代区分江戸時代分類区分資料館旧国名伊勢
現在地

三重県松阪市殿町

重要文化財 (平成16年12月10日 指定)

略歴

・元和5年(1619年) 松阪が紀州藩領となる
・文久3年(1863年) 御城番屋敷が建てられる
・平成2年(1990年) 現存している12戸のうち1戸を一般公開

石畳の路をはさんでならぶ武家屋敷

<松阪御城番屋敷の歴史>
 御城番屋敷(ごじょうばんやしき)は松阪城の警備を担当する紀州徳川藩士とその家族の住居として、幕末の文久3年(1863年)に建築されました。松阪が紀州徳川藩の飛び領となったのは、元和5年(1619年)ですから、およそ250年近く経過してから、御城番屋敷が建築されたことになります。

それまで、松阪勤務の藩士たちに住居は用意されていなかったのか?
福利厚生なんてあったものじゃない!

と思われるかもしれませんが、この御城番屋敷には、ちょっとした労働闘争の歴史があるのです。

田辺与力
 松阪城番の先祖は、徳川家康に仕えた横須賀党の勇猛な武士団でした。横須賀党は、家康の息子・徳川頼宣(とくがわ よりのぶ)のお付きとなり、紀伊でも和歌山城勤めではなく、南の田辺の勤務となりました。当時、田辺城主は安藤家が務めており、「田辺与力」の名前で安藤家で仕事をしていたそうです。現代社会でいう「出向」だったわけです。そうして月日は流れ、安政2年(1855年)のこと。突然、田辺与力は安藤家の家臣、という命令が下りました。これまで、形式上では藩主直属の直臣でしたが、この命令で彼らは陪臣の身分となったわけです。直臣であることに誇りを感じていた田辺与力らは猛然と抗議しましたが、主張は認められませんでした。そして彼らは、藩士の身分を捨てて浪人になる道を選んだのです。現代社会でいうと、人事に納得いかずに会社を辞めた、というようなものでしょうか。
 浪人の期間は6年に及びましたが、何もしていなかったわけではありません。藩復帰のために様々な活動を続け、紀州徳川藩の菩提寺である長保寺(ちょうほうじ)の住職・海弁僧正(かいべんそうじょう)の支援が決め手となり、彼らは伊勢国松阪城の御城番として藩に復帰することとなりました。こうして建設されたのが、御城番屋敷なのです。

そして現代に至り
 彼らが御城番として武士社会に復帰して間もなく、明治維新により徳川幕府は瓦解。武士社会は終焉を告げました。つまり、武士としての存在基盤を失うわけですが、このような歴史的背景を持つ彼らは、力強く世間の荒波を乗り越えて行きます。会社「苗秀社(びょうしゅうしゃ)」を結成し、山林、田畑を資産に会社活動を続けていったのです。現在でも「苗秀社」は合資会社として存続しており、直系の子孫11名で構成されているそうです。
 屋敷12戸は、現在も借家として利用されています。そのうちの1戸を、松阪市が借り受けて復元整備し、一般公開に至ります。

<管理人の感想>
 建物は、玄関と庭には入れますが、座敷には上がれません。ちょっと残念。瓦屋根に、畳敷の部屋、襖、障子と、典型的な日本家屋と、石畳の通りがいい雰囲気を醸し出しております。

<交通情報>
・電車:JR「松阪」駅より徒歩15分

<開館情報・付記>
・開館時間 午前10時〜午後4時
・休館日  月曜日、年末年始
・入館料  無料
・付近に松阪城があります。こちらも合わせて見て行くといいと思います。

探検日:2005年2月20日
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