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耳塚(鼻塚)

時代区分織豊戦国時代分類区分その他旧国名山城
現在地

京都府京都市東山区茶屋町

京都市指定史跡 (昭和44年4月12日)

関連人物

・豊臣秀吉

関連事件

鼻塚施餓鬼供養 ・慶長の役


一際、大きな小山でした

耳塚(鼻塚)の由来
 ここは豊臣秀吉が朝鮮に大軍を送って攻め込んだ時に、亡くなった朝鮮人を供養した塚です。日本では古来から、戦場での働きの証拠として、討ち取った相手の首を取ることが慣例でした。それは朝鮮出兵の時も同様だったことでしょう。しかし、人間の首はかなり重かったためか、首の代わりに鼻を出陣武将の戦功の証として京都に送るように命じたそうです。そうして送られてきた鼻の中には、女性や子供のものも混じっていたと伝えられています。
 秀吉は、それらの死者を埋葬するためにこの塚を築き、僧たちに供養の法会を行わせました。時が流れ、この「鼻塚」は「耳塚」という名前に変わって、現在に伝えられています。なお、塚の上に建っている五輪塔は寛永2年(1643年)の古絵図にその形状が認められているそうです。 

<管理人の感想>
 文禄・慶長の役から、既に400年もの歳月が流れました。この400年間、日本、朝鮮、中国の3国の間には多くのことがありました。日本と、朝鮮・中国の関係について議論されている昨今では、この塚が少しずつ大きな意味を持ちはじめているそうです。古代から、世界中で数え切れないほど多くの戦争が起こり、より多くの人々が命を失いました。この塚はそういう人類の歴史の負の遺産の一つです。
 ところで、なぜ「鼻塚」が「耳塚」という名前に変わったのでしょうか?

説その1
 方広寺の大仏を鋳造した時、その鋳型をここに埋めて「御影塚(みえつか)」という名前がついた。それが転じて「耳塚」という名前になった。

管理人の見解
 「みえつか」が「みみづか」になったというのは、音の観点から考えるとありそうな話だと思います。しかし、方広寺に造られた大仏は 鎌倉や奈良東大寺の大仏級に大きかったと伝えられております(最初に作られた木造大仏は高さ19m)。そんなに巨大な大仏の鋳型が、この塚に入りきるとは考えにくいですね。どこか一部だけを埋めたのかもしれませんが・・・

(「かおり」さんよりご紹介いただきました。ありがとうございますm(^-^)m)

他にもご存知の方は、教えていただけると嬉しいです。

<交通情報など>
・豊国神社の正面の公園の隣にあります。駐車場などはありません。

探検日:2004年11月27日
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