慶長2年(1597年)は、朝鮮半島で日本軍と朝鮮・明の連合軍が激しく戦っていた時期でした。そんな中、京都は東山の方広寺大仏殿のそばに、一つの大きな塚(墓)が築かれました。この塚は「鼻塚」と呼ばれ、朝鮮の戦いで戦死した朝鮮・明の兵士の鼻を埋葬するための墓でした。古来より日本では、戦争での手柄は討ち取った相手の首を取ることで、その証拠とされていました。討ち取った相手が名のある武将だったりすると、大きな褒美をもらうことができました。このように、個人を特定する目的でも「首」が戦功の証として用いられてきました。しかし、今回の朝鮮出兵は日本史上まれに見る外国での戦いです。出陣の際、豊臣秀吉(61)は目をかけていた小早川秀秋に
「年々兵を朝鮮に送り、ことごとく朝鮮人を殺して朝鮮を空地となそう。人には両耳があるが鼻は一つ。鼻をそいで首に代えよう」
と、言ったそうです。日本軍の本営は肥前の名護屋城ですが、現地には監視役として軍奉行(いくさぶぎょう)がいます。武将たちは、討ち取った相手の鼻をそぎ、それを軍奉行に提出します。軍奉行はその数を確認して、武将に「鼻請取状」という証拠の紙を発行しました。そして、それらの鼻は肥前名護屋城に送られ、京都まで運ばれてこの鼻塚に埋葬されました。なぜ、従来の首ではなく鼻になったのか?首なら顔で討ち取られた人物を特定することができますが、鼻では人物の特定はまず不可能です。考えられる理由としては、朝鮮・明の人の首を本国の軍奉行たちが見ても、どれくらいの身分の兵なのかわからない、という現実的な論功行賞に関わる問題が一つ。もうひとつは、上記の秀吉の言葉通り、朝鮮を空地にすることが目的だったため、質よりも数が重要であった、という残酷な考えた方があります。実際、鼻の中には女性や子供のものも多く混じっていた、という話があります。鼻の数は慶長の役のものが最も多かったそうですが、文禄の役でも島津忠豊の軍が鼻そぎを実行していたことが確認されているそうです。
さて、慶長2年9月28日。秀吉の命により「大明・朝鮮闘死の衆、慈救のため」という目的で、鼻塚にて五山禅衆による施餓鬼(せがき※注)供養が執り行われました。導師は相国寺の西笑承兌(せいしょうじょうたい:50)。さらに、方広寺大仏殿開基の高野山の僧・木食応其(もくじきおうご:62)も招かれました。ちなみに、戦の後で、敵味方を問わず戦没者を埋葬するという習慣は、一世代前の戦国時代の中にも類例が多く確認されています。
現在、この「鼻塚」は「耳塚」という名前に変わって(なぜ、「耳塚」になったのかはわかりません。)、京都市の豊国神社の前に残っています(下記リンク参照)。現代日本の朝鮮・中国との外交関係上、この「耳塚」についてはいろいろと言われています。「新詳日本史図説(浜島書店)」では、秀吉が行った供養は「慈悲」を謳っているが虚構のものである、と書いています。本当に虚構であったかどうかの議論はここでは置いておきましょう。歴史が事実として認知されるのは望ましいことですが、それでかえって関連国の外交関係を悪化させるようなことには、なってほしくないものですね。
※注 施餓鬼
仏教の供養の一つ。悪道に落ちて飢餓に苦しんでいる衆生や、無縁の亡者に飲食物を供えて行う供養。
<参考>
・日本全史(講談社)
・新詳日本史図説(浜島書店)
・鼻塚説明書き
・詳解国語辞典
・耳塚(鼻塚)説明書き
<関連史跡>
・「耳塚(鼻塚)」(京都府京都市東山区)
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