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頼久寺

時代区分戦国時代分類区分神社寺院旧国名備中
現在地

岡山県高梁市頼久寺町

国指定名勝(小堀遠州作庭園:昭和49年)

関連人物

・小堀遠州 ・戦国大名三村一族


座敷より庭園を眺めて

頼久寺の歴史
 臨済宗永源寺派に属す頼久寺の草創は不明ですが、1339年に足利尊氏が「安国寺」と号して再興したそうです。その後、1504年に備中松山城主の上野頼久が一新したので「安国頼久寺」と改称したそうです。
 慶長5年(1600年)、小堀正次が1万石で備中に入封。慶長9年に正次が死去したため、息子の政一(後の小堀遠州)が跡を継ぎました。松山城が戦乱で荒廃していたため、遠州は頼久寺を仮の館としていたそうです。この庭園はその頃に作られ、現在でも昔の姿を保っております。


上野頼久と三村三代の墓

 墓地には、上野頼久と三村家親、元親、勝法師丸の4人の墓が並んでいます。天正2年(1574年)の「備中兵乱」で、松山城主だった三村元親みむら もとちか)が毛利氏との戦いに敗れて自刃しましたが、息子の勝法師丸は命を助けられました。ところが、勝法師丸は利発な子供であったため、復讐を恐れた毛利輝元もうり てるもと)の命により、幼い命を断たれたそうです。勝法師丸の墓碑は打ち捨てられて荒廃しておりましたが、憐れに思った後の人が、三村三代の墓をまとめてこの地に埋葬したそうです。

<管理人の感想>
 国指定名勝の庭園は座観式になっているため、畳敷きの一室から、座ってのんびりと眺めることができます。音声解説も流れてきます。この辺りの町並みは昔ながらの景観を保っているのですが、その分道は狭くなっているので、車で来る時は要注意。寺の脇には、山田方谷の住居跡、という石碑が立っていました。
 利発であったために、命を奪われてしまった勝法師丸。戦国時代の習慣とはいえ、幼い子供の命が断たれるのはかわいそうな話ですね。

<交通情報など>
・頼久寺の駐車場に数台止まれます。

探検日:2004年11月7日
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