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史跡公園・古戦場選択

桜井駅跡

時代区分太平記分類区分史跡公園旧国名摂津
現在地大阪府三島郡島本町桜井一丁目
国史跡 (大正10年3月3日指定)
関連人物・楠木正成 ・楠木正行
関連事件湊川の戦い


公園の周囲は林になっており、静かなたたずまいを見せていた。

 桜井駅跡は、太平記に登場する地名の中でもたいへん有名で、また楠木親子の感動的な訣別の場面として描かれております。
時は建武の新政が行きづまりを見せていた頃。1336年、足利尊氏は新政に反対する武士団をまとめて、大軍勢を率いて九州から都に向かっておりました。
 京都の朝廷は大軍の進撃に慌てふためき、会議を開いて対応策を練ります。後醍醐天皇に従う武将の中でも、有力者だった楠木正成は形勢の不利を悟り、一時京都から撤退し、力を蓄えてから都を奪還する策を主張しましたが、多くの公家はこの策に反対。天皇も、軍勢を率いて尊氏の軍を迎え撃つようにと、正成に命令するのでありました。
 正成はこの戦いの敗戦を悟りながらも、命令に従って一族郎党を率いて京都を出発。その途中、摂津国は桜井駅(※下記注参照)にて、まだ幼い嫡男・正行(まさつら)を呼び、今生の別れに臨んで遺訓を残しました。その遺訓の内容は
「父が死んだ後は、そちが楠木一族をまとめて、天皇のために戦うことが忠孝の道である。」
というものだったと伝えられています。時に、正成43歳(?)、正行11歳のことでありました。正行は父に諭され、泣く泣く楠木一族の根拠地である河内の国へ帰って行きました。正成が湊川の戦いで戦死した後、正行は父の遺訓をよく守り、南朝方の有力武将として北朝と戦い続けるのであります。
負けるとわかっていながらも、天皇の命令に従って戦に赴いた正成。
父の遺訓を守って戦い続けた正行。
そして、彼らに従い戦い続けた楠木一族の侍たち。
中世に生きた彼らの従容とした姿は、武士の忠義の鑑となり、太平記をはじめ、有名無名多くの書物によって伝えられたのでありました。「桜井駅の別れ」は、忠孝の道を諭すいい題材として、様々な形で後世に残されています。


公園内の楠木親子像。奥が正成、手前が正行。

※注
 桜井駅の「駅」と言っても、現代の電車の駅ではありません。この時代の「駅(駅家)」とは、主要な街道に30里(約16km)ごとに設けられ、旅に必要な馬などが用意されていた施設のことです。
 京都と山陽道をつなぐ道は「西国街道」と呼ばれ、古くから主要幹線道路として使用されてきました。太平記に記されている「桜井駅」については、続日本記に記されている「摂津国嶋上郡大原駅」が相当していると、考えられているそうです。

<管理人の感想>
 国史跡ですが、本当にこじんまりとして静かな公園です。当時を偲ばせる駅家が復元されているわけでもありません。どちらかというと、人々から忘れかけられている場所に分類されるかもしれません。ただ、この公園には乃木希典や東郷平八郎、近衛文麿など、著名人直筆と記されている石碑(それも、かなり大きくて立派)がいくつか建っております。その理由は、明治維新の原動力となった歴史観の一つ「楠木正成は忠臣である。」という、徳川光圀の大日本史の影響があると思います。天皇への忠誠を貫いた楠木正成が忠臣と讃えられたことが、幕末の尊王論に繋がり、それが明治維新となって天皇を中心とした近代国家が形成された、と考えれば、太平記に登場するこの挿話は、たいへん重要な意味を持つことになるでしょう。その史跡が荒廃していることは、当時の国家から見ればあまり都合のいいことではなかったことでしょう。
 それより残念だったのは、楠木親子像の台座が「偽善の神」と落書きされていたこと。他人の歴史観を尊重するしないの問題ではなく、こういう意味のない落書きをするのは止めましょう。

<交通情報など>
・阪急京都線「水無瀬(みなせ)」駅より徒歩5分ほど。
・駐車場なし

探検日:2004年9月23日
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