1336年(北朝:建武3年 南朝:延元元年)5月25日。九州地方で勢力を回復した足利尊氏(32歳)は、大軍を率いて海陸の両方から京都を目指して進撃。一方、後醍醐天皇(49歳)側は新田義貞(36歳)と楠木正成(43歳?)が迎撃に向かい、摂津国は湊川(みなとがわ)一帯(現在の神戸市)で激戦を繰り広げた。
この戦いは兵力に勝る足利軍が勝利を収め、敗れた新田義貞は逃走し、楠木正成は自刃して果てた。
(2003年12月11日撮影) |
湊川の戦いに勝利した足利尊氏らは6月14日に京都に入った。やがて、後醍醐天皇が京都を脱出して吉野に南朝を建てたことによって、南北朝時代と呼ばれる騒乱の時代を迎えることになる。
1.朝廷の軍議と正成の献策
京都から追い落としたはずの足利尊氏が、数万に及ぶ大軍勢を率いて京都に迫っている。
この報により、京都の後醍醐天皇らは、急いで軍議を開いた。この軍議で有力武将であった楠木正成は、京都を一時捨てて、戦力を蓄えてから再度京都を奪い返す、という献策をしていた。現状では大軍勢の足利軍に勝つ術はない。ここは一時退却して再起を図るべきである、というのである。戦略的に妥当な案と言えるだろう。しかし、参議の坊門清忠(ぼうもん きよただ)が京都を捨てることに反対したため、正成の案は却下されてしまう。どころか、天皇も正成に対して兵庫への出陣と新田義貞の救援を命令したのであった。
2.桜井駅の別れ
命を受けた正成は、一族郎党およそ700騎をまとめて兵庫へ向かった。しかし、今回の戦いに勝算を見出すことはとてもできなかった。敗戦を覚悟した正成は、西国街道沿いの摂津国は「桜井駅」で、嫡男の楠木正行(くすのき まさつら:11歳)を呼び寄せ、今生の別れとして遺訓を述べたという。その内容は
「父が死んだ後は、そちが楠木一族をまとめて、天皇のために戦うことが忠孝の道である。」
と、いうものであったという。まだ幼い正行は父の遺訓を胸に刻み、泣く泣く楠木一族の根拠地である河内の国へと帰っていったと、太平記には記されている。
その後、正成は尼崎で
「今度の戦いは必ず敗北するでしょう。国中の人々が君に背いているからです。」
という内容の意見状を後醍醐天皇に宛てていた。
3.湊川の戦い
天皇方の布陣は、新田軍およそ1万が和田岬に、楠木軍は一族郎党のみ700騎余りで湊川西岸の会下山に陣取り、足利直義(31歳)軍と対峙したと伝えられている。
5月25日。朝靄の中に、数千におよぶ足利軍の兵船が沖に姿を現した。午前10時頃、兵力で勝る足利軍は3方向から一斉に攻撃を開始した。足利軍先鋒の細川直俊軍は、新田軍と楠木軍を分断するようにして上陸し、激しい攻撃を加えた。新田軍はこの攻撃を受けて、早々に敗走してしまったという。楠木軍は少数ながらも果敢に防戦したが、多勢に無勢であり、敗北は目に見えていた。ついに、正成と弟の正季(まさすえ)は兄弟刺し違えて自害して果てた。正成は死の直前、正季に何か願いはあるかと問いかけたところ、「七生まで人間に生まれて朝敵を滅ぼしたい。」と答え、正成も「いつかこの本懐を達せん」と誓ったといわれている。
このように敗戦を予期しながらも、天皇のために従容として戦場へ赴く彼の姿は後世の人々の心をとらえた。江戸時代に大日本史の編纂を開始した徳川光圀は、正成を「嗚呼忠臣楠子」と褒め称え、忠臣の鑑としたのである。
4.足利軍の入京
湊川で勝利を収めた足利軍は、6月14日に光厳上皇を奉じて京都に入った。尊氏らが入京する前に、後醍醐天皇は比叡山延暦寺に逃れており、天皇方は軍勢を大挙して、京都奪還のために足利軍に激しい攻撃を加えた。しかし、攻撃は成功せず、6月30日には名和長年らの将が討死して完全な敗北に終わった。京都をほぼ平定した尊氏は、後醍醐天皇に代わって新たな天皇を擁立することになる。
<参考>
・高等学校新日本史B(桐原書店)
・新詳日本史図説(浜島書店)
・日本全史(講談社)
・湊川神社説明書き
・桜井駅跡説明書き
<関連史跡>
・「湊川古戦場」(兵庫県神戸市)
・「桜井駅跡」(大阪府三島郡島本町)
侍庵トップページへ戻る
室町・南北朝時代年表へ戻る