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城・砦選択

信貴山城

時代区分織豊・戦国時代分類区分城・砦旧国名大和
現在地奈良県生駒郡平群町

関連人物

・松永久秀

関連事件

松永久秀の謀反

<信貴山城の歴史>

信貴山しぎさん城は、戦国時代の梟雄・松永久秀が織田信長に反旗を翻して籠城し、信長が欲した名茶器・平蜘蛛に火薬を詰めて自身と共に爆死して果てた、という事件で有名な城です。
しかし信貴山の歴史はもっと古く、聖徳太子が物部氏討伐の戦勝祈願の時に、毘沙門天が現れて加護を与えたとか。その時がちょうど寅の年、寅の刻であったため、あちこちに虎が祀られている。勝利を得た太子は、この山を「信ずべき、貴ぶべき山」と讃えたことから「信貴山」の名前がついたそうです。さらに太子は自らの手で「汗かき毘沙門天」の尊像を作って奉納し、日本で最初に毘沙門天を祀った寺院となったそうです。今では「朝護孫子寺ちょうごそんしじ」という寺名になっており、信貴山城址もこの寺が所有。管理しているようです。
信貴山城は、天智天皇の頃から軍事上の要衝として重要視され、古代は高安城の中心地域となり、中世では楠木正成が拠ったとか、護良もりなが親王が鎌倉幕府軍と対抗するために陣を張ったとかの話が残っています。戦国期には木沢長政が入城しますが、間もなく戦に敗れて敗死。その後は松永久秀が大改修を加えて巨大な山城を形成しましたが、天正5年(1577年)、織田家に反旗を翻した久秀は大軍の攻撃を受け、50日間の籠城戦の末、10月10日に上記の如く爆死したと伝えられております。その後、廃城となったそうです。

信貴山城碑

信貴山城は信貴山雄嶽(標高433m)を中心として東西550m、南北700mにわたって120以上もの郭を備えた巨大な山城だったとか。この石碑は雄嶽の頂き、空鉢(くうはつ)堂からちょっと降りた部分に建っておりました(石碑は平成5年3月に建立)。この石碑の隣には、実測地図と共に信貴山城の説明書がありました。説明書によると、土塁や空掘、門等の跡がよく残っているらしいのですが、拙者にはどの辺が土塁で、どこが門の跡だったのかわかりませんでした(^_^;)。
山頂の空鉢堂からの眺めはなかなかで、奈良・大阪方面がよく見えました。このあたりは奈良盆地と大阪平野を隔てる生駒山地の切れ目のあたりにあるので、拠点として果たす機能は大きかったかもしれません。

巨大な山城だったとのことですが、周囲は樹木が多数茂っており、中腹のあたりは朝護孫子寺と付属施設になっているので、城址という印象はあまりありませんでした。朝護孫子寺本坊には、樹齢400年の梅の木があり、なんでも豊臣秀頼が植樹したそうです。またこのすぐ近くには武装した聖徳太子が馬上で横笛を吹いている銅像が立っております。

<交通手段>
・朝護孫子寺入口付近に数箇所、有料駐車場あり。

此度の信貴山城探検にご同行いただいた桂川尚彦様にこの場を借りて深く御礼申し上げまする。

探検日:2003年9月23日
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