時代区分 | 織豊・戦国時代 | 分類区分 | 城・砦 | 旧国名 | 大和 |
現在地 | 奈良県生駒郡平群町 | ||||
関連人物 | ・松永久秀 |
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関連事件 |
しかし信貴山の歴史はもっと古く、聖徳太子が物部氏討伐の戦勝祈願の時に、毘沙門天が現れて加護を与えたとか。その時がちょうど寅の年、寅の刻であったため、あちこちに虎が祀られている。勝利を得た太子は、この山を「信ずべき、貴ぶべき山」と讃えたことから「信貴山」の名前がついたそうです。さらに太子は自らの手で「汗かき毘沙門天」の尊像を作って奉納し、日本で最初に毘沙門天を祀った寺院となったそうです。今では「
信貴山城は、天智天皇の頃から軍事上の要衝として重要視され、古代は高安城の中心地域となり、中世では楠木正成が拠ったとか、
信貴山城は信貴山雄嶽(標高433m)を中心として東西550m、南北700mにわたって120以上もの郭を備えた巨大な山城だったとか。この石碑は雄嶽の頂き、空鉢(くうはつ)堂からちょっと降りた部分に建っておりました(石碑は平成5年3月に建立)。この石碑の隣には、実測地図と共に信貴山城の説明書がありました。説明書によると、土塁や空掘、門等の跡がよく残っているらしいのですが、拙者にはどの辺が土塁で、どこが門の跡だったのかわかりませんでした(^_^;)。 |
巨大な山城だったとのことですが、周囲は樹木が多数茂っており、中腹のあたりは朝護孫子寺と付属施設になっているので、城址という印象はあまりありませんでした。朝護孫子寺本坊には、樹齢400年の梅の木があり、なんでも豊臣秀頼が植樹したそうです。またこのすぐ近くには武装した聖徳太子が馬上で横笛を吹いている銅像が立っております。
<交通手段>此度の信貴山城探検にご同行いただいた桂川尚彦様にこの場を借りて深く御礼申し上げまする。